文学フリマ大阪にて、稲麻竹葦ブースに訪れて下さった皆様、誠にありがとうございました。
今回の号は、長編小説を書きました。
読むのに時間がかかるかもしれないし、ややこしい単語も多いので、申し訳ないです。
来年も、たいへんな号になりそうです。
それにしてもおかげさまで、文フリ大阪では、稲麻竹葦史上最大の販売数を記録しました。段ボールも、いつも二箱分になっていたのですが、一箱にすべて収まるようになりました。
次は文フリ京都、そして広島です。どうぞよろしくお願いいたします。
古典の研究を自分なりにしていると、ふと、思うことがあります。
「これはこうに違いない」
そう、独自の観点や発見をほしがる気持ちがわくのです。
古代史にハマる人が、邪馬台国論争とかにどっぷりつかって、その一生を捧げてしまう理由が今回の研究で少しだけ分かりました。
というのも、日本中に神社が多すぎて、古墳も多すぎて、歴史なんてなんとでも言えるんです。地面を掘ったら日本中どこからも、豊かな遺物が出て来ます。
何とでも言えてしまう問題。それは、古代史にとっての宿命です。
ある程度古代史の本を読むと、図書館にある古代史の分厚い本のほとんどは、別に読まなくてもいい本になっていきます。原本読んだ方が良くない? それでもある程度は目を通さないといけないのですが。
言語の起源を例に述べます。
人間の音声や発音なんて、ごくごく限られたもので、どんな単語も似てくるに決まっています。
普段日常的に使用する言葉が、めちゃくちゃ長い単語になるはずがないです。
短い単語だと、もう限られてくるし、言いやすい言葉というのでもっと限られてきます。
だから、この単語と単語は似ているからうんぬんは、すべて怪しいと思ってもいいと私は思います。
テキサスという言葉があります。テキサスは決闘が行われたアメリカの地名です。
よく見て下さい。テキサスは「敵を刺す」。決闘が行われたというところでも共通している。なるほど、英語と日本語は似ている。アメリカは日本起源ではないか。
こんな論文のようなものは、世の中に山ほどあります。そして、努力家で、賢い人ほど、自分のイデオロギーに沿った解釈しかできないです。韓国好きは日本語韓国起源に、南洋好きは南洋起源に。私はベトナムが好きなので、ベトナム起源でやろうと思えばできます。似たような単語もあります。(逆輸入だったりもするのですが)
世界には「スカ家」がある。ナスカ、アスカ、スカンジナビア、世界中にスカの地名があるのは、スカ家が世界を支配していたからだ。
みんな笑ってます。しかし、これのちょっとしたアレンジで、学術論文風になっているものは、古代史にたくさんありまくりです。読みません。
要するに、神話や言語には、スタートはありません。宇宙の始まりと同じです。宇宙の始まりってなんですか? ビッグバンですか? じゃ、ビッグバンの前はなんですか、その前の前は、と。すると、時間や空間がない世界が答えとなります。
同じです。
この神話や言語の起源はなんですかと考えると、それは、「神話や言語の起源は、神話や言語がない世界です」となります。
ところで、日本は、遺跡を徹底して破壊しないので、どれだけ内戦をしようが、建造物はある程度残ることが多いと思います。世界的には残っている方なんじゃないでしょうか。知らんけど。
日本はかつて分裂し、大乱を繰り返していたのかも知れません。
じゃ、古墳もぶっ潰されて、ほとんど残っていない……のではなく、東北も九州も関東も、四国も丹波も山陰も、ヤマトも和歌山も大阪も古墳だらけです。
かといって、これらが一つの王権によってなされたことではないです。
連合王国だった? なるほど。
じゃ、なんで埋葬方法が統一されているのか。
連合なんだから、それぞれ地方で、俺は星形にするわ! とか誰か言えよ。
なぜ宗教(埋葬方法)が統一されているのか。
疑問は増えるばかりです。何もわかりません。
ぶっちゃけ、ぜんぶ予測です。
予測だらけだから、古代史はほぼなんとでも書けます。
神社が、直線で繋がる! とか、魔方陣が神社を繋げばできあがる! とか。
神社が多すぎて、どんな図形でも描けます。
富士山の場所とどっかの神社を繋げている本があったら、それを楽しむように読んで下さい。真実は何も書かれてません。
ただ、一つだけ言える確かなことは、古事記や日本書紀が、そして神話が強固で、神社がいまも元気なのは、「原本がみんな読める」からです。
古事記と日本書紀は、分析した本はいっぱいあって、やれ天皇が民衆を支配するために書いたとか、西洋の方法で色々好き勝手言われていますが、それでも容易に、「古事記は読むに値しない本」というレッテルを貼れないのは、「古事記が読める」からです。
支配しようとしている! と言っても、実際読んだら、「これってほんとに『支配』にあたるの?」と思える箇所がほとんどです。ってかそれしかないです。だいたい神話ってこんな風に書くのが普通じゃない? とか、常識的に思える判断ができます。
資本論や国富論や聖書は、分厚いし、容易に読めないので、解説者や批評家によって、いくらでも、なんとでもこういう本であると紹介できます。嘘なんていくらでもつけます。こう書いてありますよ、って言えます。弱い本です。
しかし、古事記が強いのは、読みやすいし、みんな古事記の解説文より、古事記を直接読んだ方が面白いし早いんです。
だから、強い。
資本論が弱いのは、原本を誰も読めない(訳文でも読んでない)からです。
本の強さとは、「その原本に当たりやすい」ということです。
古事記は悪魔の本だ、と批評があれば、原本にあたって、「これって、日本的な倫理のはじまりなんじゃない?」と言い返すことができます。原本がそれなのだから、どんな頭の良い人にも反論できます。「ここに書いてますけど」「ぐぬぬ」と。
古典の素晴らしさはそこにあります。
世の中を都合良く動かす思想、イデオロギーに対して、古典は、「ここに書いてますけど」「ぐぬぬ」ができる。極端な解釈を否定できる良さがあります。
稲麻竹葦は、その「強さ」を再発見するための同人誌であることを目指したいものです。