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(日常)小説を書いていて良かったこと

 小説を書いていて良かったこと、という不気味なタイトルだが、たいしたことは書かない。
 小説は、一枚絵や、描くのに時間がかかる漫画と異なり、結構簡単に、創作によって実体験を昇華できる、という利点がある。
 日常の嫌なことや、もやっとしたこと、自分にも非があることなど、あとは、友人の奇妙な行動とか、倫理とか、そういった出来事の切り抜きを作品としてうまく仕上げることができる。それがやりやすいのは小説だ。その小説の生みだす味わい深さだ。
 これは、ラップにおけるサイファーと似ている。サイファーの定義については、様々あるが、僕は、カレー屋のKOMOLEBIを経営しているアイラブさんが言った、「サイファーはもっとも遠回りのコミュニケーションだ」がしっくりくる。サイファーは輪になってラップしながら、日常のこととか、適当にやりあうものなのだが、結論を出すまで、韻を踏んだり、ずれたり、言おうとしたことを忘れたり、通常のやりとりの百倍くらいかかる。遠回りに伝えること。これがサイファーに起こる現象である。というのも、近道して伝え合ったら、それはただの会話であり、ラップの意味が無い。サイファーにおけるラップとは遠回りしながら、意味をだんだんと共有して、離れたまま伝えあうところにある。
 で、小説においても、そうで、僕は実体験とそのアレンジを行っているが、このアレンジ具合はかなりヒップホップの影響を受けている。簡単にいえば、嘘を本当のように書くということだが、じゃあ、何か小説で伝えたいことあるのに、なんでわざわざアレンジをするのか。伝えるんだったら、実体験をそのまま書いた方が近道ではないのか。自分のメッセージ性だけを込めれば良いのではないのか。
 たしかに合理的だけれども、自分の体験、被害にあったとか、そういうことをそのまま書いて、こんな嫌な思いをしましたと書いて、それが面白いのならばいいけれども、必ずそこには何かしら捨てられるものがある。まっすぐ歩いたら見つけられない、宝箱や秘密の部屋はたくさんあるのだ。小説は寄り道したり、ダンジョンに迷ったりして、アレンジして、その迷いっぷりを共感できるところまで持っていくところに面白さがあるように思う。
 で、なぜ「良かった」になるかというと、書きながら、カウンセリングのように、その気持ちの正体を正確に捉えることができるからだ。その「正体」は必ずしも「伝えたいこと」には一致しない。むしろ、正反対……ともいえない、別のものになるだろう。
 これはサイファーしているのとも似ている。遠回りしすぎて、サイファーの話題はつねに別のものになり続ける。むしろ、作品や人間が何か作ろうとするものは、よほどの目的意識がないかぎり、いやあってもなくても、予想もつかない別の結果をもたらすものなのだ。
 よくノーベル賞とかで、偶然こうなってノーベル取れましたみたいなことが語られたりするけれども、こうした、偶然こうなりましたみたいなのが、作品つくりにもラップにもあるように思う。

2件のコメント

  • ふ、深い……
    体感的にも納得です。
  • >梶野カメムシ様
    いらっしゃいませ!昨日すっごいむかついたことがあって、ストレス解消に書いた文章なんですよ。なので文章に怒りがあふれてます。お読みいただきありがとうございます!
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