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(日常のこと)巻き戻る時間

「時間」を感じる瞬間ってありますか。
 私がもっともその「時間」を感じたのは、姉が亡くなったことです。姉には娘が一人います。姪っ子です。彼女は強く生きていて、その輝きがあまりに眩しくて、自分の生き方を、逆にとても教えられています。子どもに教えることなんて、何もないのだなと思います。ただ、彼女がわがままをいったとき、そのわがままを超える速度で応えています。
「コロコロ買ってきて」
「おう、買うわ」
 即答中の即答。
「そんなわがままいってはいけません」
 普通ならそうなるでしょう。
 でも、私にはそんなものはありません。
 子どもに試されているからです。どうせ買わないだろうと。
 私はその試験をこえていく。答えを出していく。1秒で、「コロコロ、5分で買って持って行くわ」。
 教育上良くないかもしれないけれど、きっと彼女は何十年か経ったとき、なぜあの人があの時本を即答で買っていたのか、その何重もの意味がわかるかもしれない。特に意味なんてないのだけれど。でも、少しだけ意味はあるのだけれど。それは、試験に合格しようとしていたからです。

 「時間」。
 感じる時があります。
 好きなラッパーがあまり売れなくなってしまったこと。ライバルが執筆をやめてしまったこと。ひょんなことから、ひょんなめぐりあわせから、新しい仲間ができて、ラップ論や、日本の古代史を書いていること。自分の最も影響を与えた人物と縁を切ったこと。何度もリピートしていた音楽が移り変わっていくこと。自分の師と呼べる二人の老人がだんだんと世の中に「隠居」していくこと。自分が大切にあたためたキャラクターたちが消えていき、妄想にひたることができなくなること。

 そうして、だんだんと自分一人になっていくこと。

 「時間」は、幼少期、青年期、様々なライバルや大人に囲まれることによって、多重に流れているように思います。周りに、それぞれの時間があり、ゆっくり流れているやつ、早く流れているやつ、渦をまいているやつ。そうした流れがだんだんと見えなくなっていくか、遠くにそれこそ流れて行ってしまって、自分の「時間の流れ」がわかってくる。時間とは、多重から単線へと、少なくなっていくことではないかなと思いました。

 時間とは、他の人間の時間が減っていく(消えていく、見えなくなる)ことである。本当は、無くなってはいないのに、ね。
 ツイッターは、そんな昔の、時間が多重だったころを思い出すコンテンツです。だから、子ども染みた言葉しかないんですね。

 時間とは、他にやることがなくなっていったり、あきらめたりすることが、増えていくことではありません。減ることです。時間が自分だけのものになっていくことです。老人になるということは、何よりも時間がいよいよ自分のだけのものになることではないでしょうか。(子どもができたら、そうではなくなるのかもしれないけれども、ちょっと違うかも。どうだろう)

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