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一生涯読者数ゼロの創作者 ~ヘンリー・ダーガーの孤独を想う~


 ――創作者ヘンリー・ダーガーの孤独を想うと、勇気が湧いてくる。
 物語を書くことへの勇気と、何よりも、孤独であることへの勇気が。――


 ヘンリー・ダーガーという物語創作者がいた。作家ではない。つまりプロではなく、ただのアマチュア創作者だ。
 19世紀から20世紀にかけてのアメリカで掃除人として生きた彼に家族はなく、友人もなく、財産もなかった。

 ただ物語だけがあった。1万5千ページを超える超長大な絵物語『非現実の王国で』。約60年間にもわたって書き続けた、誰にも知られなかった物語が。

 晩年に彼はアパートの大家へ、遺品は捨ててくれ、と伝えていた。だが大家は部屋を埋め尽くすゴミの山から、その物語を――他にその続編や、フィクションを含む彼の自伝を――発見した。
 それがヘンリーにとって、望ましいことであったのかは誰にも分からない。


 ――彼の孤独を想うと胸の内が震える。
 その物語を誰かに見て欲しいとは思わなかったのか? 
 主人公やお気に入りの登場人物の活躍を、誰かと話してみたいとは? 
 60年間、人生丸ごと、まさに心血を注ぎ続けた|命の成果《ライフワーク》に対する、正当な評価が欲しいとは? 
 あるいは必要ではなかったのか、そんな評価は? 
 彼だけのために生まれ、彼と共に誰にも知られず消えていく、その方がよかったのか? 




 ――人が物語を生み出すなんてことは、実はなかなかない。人生においてそんなことをする必要はどこにもないからだ。
 であれば、そこには必ず動機がある。

 フィクションの話で恐縮だが、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』で漫画家・岸辺露伴はその動機についてこう語っている。
「ぼくは読んでもらうためにマンガを描いている! ――ただそれだけのためだ、単純なただひとつの理由だが、それ以外はどうでもいいのだ!」

 『読んでもらうため』――崇高な理由だが、ヘンリー・ダーガーの場合は違っただろう。
 おそらく彼の物語は、彼が自身のために書いた、それだけですでに役目を全うしていた。
 だから彼は、捨ててくれと言ったのだろう。彼と共に在り続けたその物語を。


 ひるがえって私自身は、と考える。
 今私が書き続けている長編は――非常にありがたいことに――読者がいる。片手で数えられるほどの人数の。
 その読者が仮に百人だったら? 千人、一万人だったら? 何か変わるだろうか? 

 ――たぶん、何も変わらない。
 もちろん多くの人に読まれた方が嬉しいだろうが、それが作品に影響するとは思えない。
 自分が書きたいように書いている――もちろん他人が読んでも面白いよう、最大限の努力はしているつもりの――物語だ。千人が読もうが万人が読もうが変わりようはない。

 逆に、読者が0人だったら?
 ――たぶん、何も変わらない。
 書くのをやめようか、と思うこともあるだろうが。それでも変わらず私は書くだろう。
 私は自分の物語の結末を知っている。
 だが、その結末をまだ書いたわけではない。つまり、体験したわけではない。

 知識と体験との間には、常に無限の差異がある。
 書いてみればその結末は、構想とまるで違ったものになる可能性すらある――そこには無限の差異がある。
 私は、私の物語の結末を体験したい。


 なぜ書くかという問いに対する、私の答えはごく根源的なものだ。
『書かずにはいられないから』、ただそれだけだ。

 書きたくてしょうがないから書く。それを読む人がいようといまいと、そんなことは後で考えればいい。書きたいのだから。

 それは当たり前のこと。偽りようもなく、また人目を気にする必要もないこと。
 腹が減ったから食い、悲しいから泣き、うんこしたいからうんこするような……いや、最後のは人目を気にした方がいい。


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