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主を恐れることは知恵のはじめである

・むかしの日本には「女中」と呼ばれる人々がいた。いまはあまり聞かないことばだが、1950年代までは社会の中で役割を担っていた。以下、wikipediaに寄りかかって書く。なお、女中が気になったのも、コメント欄のやりとりによる。

 江戸時代は、『雇用または金銭の対価として身売りされて、武家や商家、庄屋の戸籍に登録され、稼業や家内雑務で労働する女性を女中と呼んだ』そうである。
 とくに、『炊事や掃除などを行い水回りを担当する下女中』は下女とも呼ばれた。これに対となる言葉が下男である。
 高島俊男ではないが、戦前までの日本は基本的に、人間がブルドーザーであり、洗濯機であった。なにをするにも人手が必要だった。これは重要な点である。

 女中という「制度」は、明治以降、『富裕な家の増加によって女中の雇用は広がり』、『教育水準の低い下層階級子女の就職先という性格が強まっていった』。
 しかし、『1950年代後半の頃に差し掛かると、女性の権利意識向上、就学率の上昇などに伴い』、女中の数は減ったとのこと。
 女中には、『結婚前の女性に対する礼儀作法や家事見習い』という面もあったが、女性の就職先のない時代の、数少ない選択肢のひとつであったわけである。

 谷崎潤一郎の「台所太平記」を読みかけだが、これは、谷崎家の女中たちを主役に据えた小説であり、戦前の1936年から、1963年までが描かれている。谷崎家は、夫妻に娘ふたりの四人家族であったが、多い時にはそれ以上の数の女中を雇っていた。多くないかな~と思いつつ読んでいる。

 コメント欄で、医者の家だった丸谷才一の生家に女中がいたかという話になったが、上のような経緯から、おそらくいたであろう。
 同じく医者の息子である北杜夫の生家にいたかどうかが気になったが、「楡家の人びと」には登場して来ないようだ。いて当然の存在だから、主要な人物としては登場しないのだろうか。

 余談だが、童謡「赤とんぼ」の「十五でねえやは嫁に行き」の『ねえや』は女中のことであり、姉ではない。


・「はたて」は、はて・かぎりの意味。敷きませる国のはたてに(広辞苑)。


・ひとつ、ショートショートのアイデアが浮かんだ。形にしてみようと思う。ちょっとむづかしいけれど。


・ではでは。みなさん、きょう一日を乗り切りましょう。

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