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峠を越えて

・新作について、文学的という評価をいただいた。私はすなおにうれしかったのだが、なかには、文学的と言われると嫌な顔をする人もいるらしい。よくわからん。
 よくわからんものといえば、(純)文学ということばである。何となくはわかるのだが、説明してみろと言われると困る。どうであろうか。自分には関係のない言葉だと思っているので、脳が理解するのをこばんでいるのだろう。

 いまの自分の力量に不満がなければ関係のない話だが、もし、もっと筆力をあげたい、もう一段階、上のステップにあがりたいと思っている人は、とにかく、作品を完成させ続け、一度、頭の中を空っぽにするべきだろう。そうすると、自然と、自分の頭の中に、今までにないアイデアが浮かび、筆力も向上しているにちがいない。
 とにかく、完成させることが大事である。カクヨムでも、推敲などを理由に作品を取り下げる人が少なくないが、あれは悪手のように思う。とにかく書き切って、その出来が気に入らなくて余力があるのならば、書き直せばいい。(そもそもの話、途中で引き上げるのは、それまで読んでいた人に失礼だし、読者が離れるだけだと思う。そういうことをする人というレッテルをはられてしまう)
 途中で大きな設定や話の変更があったら、「大菩薩峠」をまねして、その旨を読者にコメントして、何食わぬ顔でつづきを書いてしまえばいい。とにかく、しろうとは、書き上げることが大事だ。読む方だって、これはしろうとが書いているのだと、そこら辺は甘く見てくれるものである、たぶん。

 大菩薩峠というのは、大衆文学の祖とも呼ばれる作品であるが、なかなかエキセントリックな話である。
 詳しくはウィキペディアを参照していただきたい。

『途中で話は幕末から明治に入らず架空の世界へと迷い込む』
『数多の登場人物は慶応3年秋の日本各地をいつまでもいつまでも彷徨い続ける』
という文章をながめると、ちょっと本文を読むのをためらうよね。

 大菩薩峠は、新聞で長期間連載されていたり、途中で作者の書きたいことが変わったたりしため、紙面において、作者が話の矛盾の説明や方向の転換などについて、時々、読者に説明していたそうである。
 カクヨムでしろうとが書く場合もこれでいいと思う。私も「スラザーラ年代記注解」という物語でよくやったが、読者からとくに非難はなく、架空の歴史小説のわりにはたいへんよく読まれた。
 ちなみに、大菩薩峠は、作者死亡のため、41巻で未完である。そこはまねしないように。
 とにかく技量をあげたいのならば、アイデアが枯渇するまで、10万字程度の小説を書き続ける。頭の中が空っぽになるまで。とにかく、前へ前へとすすむ。それがベターな選択のように思う。


・味の素がダメな人は、ウェイパー(味覇)もダメなのだろうか。


・「雪の香り。」さんから、新作にたいして、また、すばらしいレビューをいただいた。むずがゆいぜ。

文学の香りをかぎたい方におススメです(男性視点の作品です)。
https://kakuyomu.jp/works/16818093075355048366/reviews/16818093075376360344


 そんな「雪の香り。」さんの代表作。ぜひ、ぜひ、ご覧あれ。

言葉って奥深い。
https://kakuyomu.jp/works/16817139558406362388


 ではでは。きょうも豚骨ラーメンを食うぞい。よい休日を。

9件のコメント

  • おはようございます。

    文学的とは、国語の教科書の類に出てきそうなさまを言うのではないかと考えました。
    純文学は、俗受けに否定的で、通俗的な読み物に飽きたり馴染めなかったりするひとを読者に想定した文学かと、いま考えました。

    読んでいる作品が推敲のために非公開になった経験がありますが、たしかに心が離れてしまいました。
    その点、大幅な変更を行う声明を作中で出すのは、ひとつの技法として認めたいところだと思いました。
  • おはようございます。

    「作品を完成」「それまで読んでいた人に失礼」
    耳が痛いです。僕にはカクヨムに、ひとつあり(去年の2月で止まっている)、アルファポリスでも長篇小説をやろうとして止まったもの(非公開設定済)がありました。
  • 文学的・・・あくまで私の感覚ですが、文字を用いた表現の中で時代の最先端でないものですかね。既に歴史的な審判をある程度受けて生き残ったものといってもいいです。現代の大衆娯楽以外のもので、今なお読まれているものを保管している容器のラベル。明治期や戦前は言うに及ばず、半世紀前のものの多くは既に文学になりかかっているんじゃないでしょうか。

    ちょっと見てきたところ、芸術作品であるか大衆娯楽であるかによって(純)文学とそれ以外を分けるという見解が主流のようですが、それだと歌舞伎が大衆娯楽だったのに現在では文化財扱いされていたり、江戸時代の春画展なんかが現代の美術館で開催されていることと整合性がとれません。現代のラノベの中から、後世において偉大な芸術(文学)であったと評価される作品が選別される日は必ずきます。井原西鶴の好色一代男が岩波文庫から出版されている現実を見ればわかる話です。

    大衆娯楽であるか否かという観点は、時代背景を抜きにして語れません。昔の時代にはウケたものが、今の時代では面白くもなんともない。だからこそ、そこに不思議な芸術性が見えてくる。後世の人が勝手に芸術作品にしてしまう。その意味において、芸術と娯楽の境界は極めて曖昧で、線引きの役目を果たせていません。手塚治虫の漫画あたりは、既に芸術作品としての価値の方が高まっている気がしますし。

    なので、自分はラノベのつもりで書いたのに文学的だと評価されてしまった場合、「今の時代じゃウケないよ」と言われてしまった感覚になるんじゃないかなと。私自身は時代を追いかけていないので、そういう評価を「時代を超えた普遍性がある」と好意的に解釈しますが、人によっては嫌がるのもわからなくはないですね。

    以上、あくまで私見ですので、真に受けないで下さいませ。m(_ _)m
  • ・青丹さん

    おはようございます!

    国語の教科書。もちろん、例外もあるでしょうが、言い得て妙なように思います。星新一の作品も文学!

    純文学の想定する読者層はその通りですね。そして、想定した読者で、純文学かそうでないのかを分けるのは一つの手のように思います。
    まあ、純文学が何かなんて、各々、識者によってちがうのでしょうね。

    物語や詩の途中で、ひょっこり作者が出て来て弁解するのも、雅趣があるように思います。そう頻繁にやられても困りますが。

    ではでは~。
  • ・森下さん

    こんにちは!
    カップヌードルのカレー味は、お酒を飲んだ後に食べると格別です。大好物です。(純)文学の話、興味深く読みました。

    本来は、完成してから、投稿するのがベターなのでしょうけど、それはむずかしいですよね。どうしても書きたくなっちゃたり、私みたいに、読者に応援されながらでないと書けない人もいたり。

    ご安心ください。書いておいてなんですが、私もあります。たぶん、みんな、一作や二作はあるはずです!
    まあ、「絶対、書籍化する!」と息巻いている人以外は、途中で書くのをやめるのを含めて、好きに書けばよいように思います。その権利があるはずです。

    ではでは~。
  • ・ブリュヴェール(千茶)さん

    こんにちは。
    千茶さんの料理の画像はおいしそうですよね。

    ウェイパーとシャンタンのちがいをネットで調べたら、香ばしい確執の歴史を知れました。ありがとうございます。
    ウェイパーのほうが、シャンタンより味が濃いそうですね。

    ではでは。
  • ・杜若さん

    こんにちは。
    参考になるコメントありがとうございます。

    なにが、(純)文学か、人によってちがうのはおもしろいですね。他人に使う時には、語義を限定して使った方がよさそうですけど。
     普遍性があるという意味で使うのならば、「文学的だね」よりも、そのまま「普遍性があるね」と言った方がよさそうです。

    「古典」と「文学」というのは、かなり重なり合う部分の多い言葉のようですね。

    星新一は「文学性のなさ」を指摘されたり、安部公房と比較されたりして、悩んでいたそうですが、時間の流れとともに、彼の作品が「文学」と認められる時代が来るのでしょうかね。私は、彼には「文学性」があると思うのですが。

    いろいろと考えさせられるコメントをありがとうございました。
    ではでは。
  • > 人に使う時には、語義を限定して使った方がよさそうですけど。

    まったくもってその通りだと思います。定義やコンセンサスは大事です。

    > 「古典」と「文学」というのは、かなり重なり合う部分の多い言葉のようですね。

    さすがですね。ややこしくなるので敢えて使わなかった言葉に切り込んで下さいました。

    以下、上のも含めて人様のコメ欄に書くには長すぎて躊躇いがありますので、鬱陶しければバッサリ削除しちゃって下さいませ。


    *************
    え~、上のコメントを書きながら頭の片隅にイメージしていたのが、クラシック音楽史だったりします(まあ、"classic"の本来的な意味は「一線級」「傑作」の方だと思いますが、多分世間的には"classical"の意味で理解されているだろうと)。なので、仰る通り、私がイメージしていた「文学」のイメージは「古典作品およびその系譜を受け継いだ現代作品」といったところです。ただ、日本文学の世界における「古典」という言葉は教育課程で言うところの「古文」のイメージをもたれることも多いので、その辺を考慮して避けました。

    西洋音楽の世界でクラシックと言えば、多くの人はバッハからストラヴィンスキーくらいの時代のイメージじゃないかと思うのですが、私のイメージだとブーレーズとか武満徹もクラシックです。彼らは「現代音楽」に分類されていながら、既に古典に足を踏み入れた人たちという感覚があります。

    音楽界と文学界の顕著な違いは、音楽界には楽器編成という目に見えるわかりやすい標識があることですね。なので、ポップスやロックは(技法に共通項はありますが)明確にクラシックの系譜ではなく、その界隈における独自の(たとえばビートルズという)「古典」を持っていると思います。問題は"Ping Pong Concerto"みたいに卓球をオーケストラの打楽器として持ち込んじゃったり、ティンパニ協奏曲みたいに「最後はティンパニを破壊して終われ」みたいなイカレた指示が書かれているもの。これらをどうすべきかというのは、時代に委ねられるべきだろうと思うわけです。端的に言えば、影響力・同時代者へ与えた衝撃・追随者の登場等々。

    星新一は恥ずかしながらちゃんと読んだことがないのですが、ショートショートの歴史を紐解けば必ず出てくる人ですので、確実にクラシックであると思います。ひとつの文学形態を広く世に知らしめたというだけでも、十分すぎるほどに古典としての資格はあるでしょう。「文学性のなさ」という批判は、同時代の人にとっては古典的(先人達の価値観の枠組み範囲内)だと理解されなかったというだけの話であって、ショートショートの追随者を多数生み出し市民権を得た今となっては、彼が古典扱いされることに違和感をもつ人の方が少ないんじゃないでしょうか。それはいずれ、文学的であるという評価と同視されてゆくものです。市民権を得た作品には、必ずそれを学問として評価する者が現れますのでね。桃太郎のような子ども向けの御伽話ですら、今では立派な学問の対象です。

    一方で、追随者が出なくても、あるいは一般人には理解されなくとも、歴史に名を残す人はやっぱりいるのでしょう。おそらくは古典とは認められなくとも文学的であると評さざるを得ない人たち。強引な例を挙げるなら「ソドム百二十日」(マルキ・ド・サド)とか「裸のランチ」(ウィリアム・バロウズ)とか。

    ちなみに「裸のランチ」は映画にもなりましたが、元の小説は
    1.適当に小説を書く or 他人の文章をもってくる
    2.その紙を切り刻む
    3.並び替えて新たな作品として再構成する
    というカット&ペーストで作られています。個人的には1ミリも共感できませんが、それでも歴史に残ってしまった以上は、これらも文学(≠古典)なのだろうと思います。はい。
  • ・杜若さん

    こんにちは。
    楽しいコメントありがとうございます。
    音楽に疎い方なので、たいへんおもしろく読まさせていただきました。

    上のほうのコメントで、青丹さんが、国語の教科書に載っているのが「文学」という話をされていましたが、たしかに、ショートショートを世に広めたという観点から、星新一が教科書に載っているのは不自然ではありません。
     ショートショートという形態から星新一を見る、という観点が私には薄かったので、お話、たいへん興味深く読まさせていただくと同時に感心いたしました。

    ではでは~。休日の午後を楽しみましょう♪(休日でなかったらごめんなさい)。
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