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東雲からはじまる光朝の対極は夕暮れから端を発し夜闇が占むる

夜明け前の闇が一番暗いと聞いたことがある。
私はどんなに明るい日差しの下の幸福に浴しているときでも、夜明け前の闇を探すように苦しいことを探している。
苦しいときのほうが、怖くない。
幸福の時のほうが、怖い。
その瞬間の幸福よりも、そのちょっとさきの不幸を想像してしまうのだ。
私はこんな調子だから人と話をしてもとんちんかんになってしまう。
瞬間に集中すればどんなに幸福だろうか。
そんな素直さをいつもうらやましく思っている。

最近自分のプライベートな文章を読み返すと一人称が多い。
誰かに何をどれだけ伝えたいのだろうか。

急に怖くなる時がある。
自分がどこで何を話したか把握しきれない場面も多くなっている。
特別な秘密もない。それでも、私には複雑な内面を隠し続けたい思いがある。

私の自身の内面を誰かに一部でも共感してもらいたいと思えない。
人には私の表面的な部分だけ見ていてほしい。
文章を拡散するのはかく乱作戦なのだ。
オープンな人間だと印象付けるには有効な手段だと思う。

素の私を公にしたがらない理由は私自身わからない。
期待しないことで自分を守っているともいえる。

単純なことが大嫌いだ。
だから単純な人と出会うと安心する。
複雑なことが大好きだ。
だから複雑な人と出会うと怖くなる。

私の幸福は他者の中に存在する。

求められていると怖くなり、求められないと不安になる。
ひとりでいることは恐怖であり、誰かといることはストレスだ。

自分を知られることは恐怖であるから、一面的な印象を強調する。

私は印象よりもずっとずっと複雑で気難しい。
印象よりもずっとずっといろんなことができる。
だから私は嫌われる。だから私は一面的な付き合いを好む。

もしも、瞬間の幸福を楽しめるような単純な素直さがあれば、、、
それはもはや、塩気を失った役に立たない塩だ。
私は私でいい。私は私にしかなれない。
私の幸福はいつも二面性をはらんでいる。
だから、夜明け前の闇にいつも浴していればいいのだ。
燦燦と光が降り注ぐような幸福がやってきても、その光で作られた闇に注目するようにすればいいのだ。
物事に二面性を見出し、いつも対極を見つめていればいい。
そうやって自分の恐れと折り合っていけばいい。
私は私でいなければ意味がないから。





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