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「骨」投稿

またもや、2014年に書いたものです。

発表時期としては「鼠を殺す」と「嵐」の間で、両作品と合わせて、自分の中では3部作を成す1作だったりします。直接のつながりはないんですけど、主題に共通するものがあります。その結果が、一連のよくわからないオチです。

「鼠を殺す」を子供の物語とするなら、「嵐」は親の物語です。そして、「骨」はその両者の物語と言えます。そんなことを意識しながら読むと、一連のよくわからないオチにも多少は理解が及ぶ気がします。

小説として特に凝ったことはしていません。文体も凡庸で、構成も一直線だったりします。読み返してみると、これまでの創作歴で最も淡泊な作法によって書かれているようにさえ思えてきます。キャラクターの描き方で新境地を拓いた「鼠を殺す」や、ありありとした不条理性に挑んだ「嵐」に比べると実験精神も薄いです。

そんな事情もあって、これまでここでは公開していなかったのですが、「鼠を殺す」と「嵐」をつなぐミッシングリンクとして折を見て発表するつもりでした。それがこのタイミングになったのは、エッセイの更新が遅れているからです。他にも何作か発表の準備をしているものがあるので、エッセイが滞り出したら徐々に発表していきたいと思います。

鼠を殺す
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888103684


https://kakuyomu.jp/works/1177354054885897766

2件のコメント

  • 私が〝よみやすさ〟に特化しようと考えていたりしたことも伝わると思うのですが、私自身がこういったジャンルに疎いというか、そもそも、このジャンルが評価の難しいジャンルってのもあるかも知れませんね汗

    言わずもがな――ではあるんですが、主流のミステリであれば、結局のところ事件が起き、その謎を解決するっていうのが本筋で、最も面白さを提示するポイントだったりします。
    ここに読者は面白味を感じるというわけですね。

    初期の作品ということですので、あんまり突っ込んで話しても悪いなぁとは思ったりはするのですが、『骨』は初見で読んだ時に普通のミステリとしての色が濃くて、どういうオチなんだろう?という期待感を煽るような形になっているのだと思います。
    その延長線上として私が読んでしまったために、ミステリなのに確固たる犯人が提示されないままに物語が終わるという感じの、一種の肩透かしのようなものを感じてしまったんですよね。

    話が変わって悪いのですが、私は全ての物語が〝分かりやすく〟ないと駄目だなんて思っておりません。そういった種類の面白さがこの世に存在しているのは知っていますし、人文なんかの受賞作ではよくあったりしますよね。

    しかし、これっていうのは、これは〝そういう物語〟で〝そういう楽しみ方をする作品なんだ〟っていうのが読者に伝わらないと、面白さを発揮できないという問題を抱える作品群だと思っていたりします。

    そして、この物語というか、戸松秋茄子様の短編をかいつまんで読んで私が思った弱点と言うか問題点としてなんですが〝このジャンルである〟っていうのが伝わりにくいということです。

    この物語はそういう心構えで読めば、普通に楽しめると思います。

    しかし、その視点を持たないと――伝わらないという部分が、単に作者の力量不足であると捉えかねられず、また一般的な視点で読んでしまうと、何が伝えたいのか分からないという結論に至ってしまい、それ以上先まで〝考えるに至らない〟ことで面白さを得られないんですよね。

    私がライトノベルを目指していることもあり、ジャンルでいうと真逆の位置に存在するために、中々それを避ける方法というのが思いつかない訳ですが、純粋に短編との相性が悪いっていうのが根底にあるのかも知れませんね汗

    これってのは凄く難しいことなんですが、この面白さの方向性を序盤に提示するってのが必須なジャンルで、その上ならばこの物語の面白さを伝えられるんじゃないかなぁと思ったりしました。

    またまた変な長文をすみません汗
    執筆お疲れ様です!
  • >>星浦さん

    こちらにもコメントいただきありがとうございます。

    たしかに序盤におもしろさの方向性を示すのはおそらく大事なことだろうなという予感があります。特に長編はある程度序盤の期待を裏切らない作劇が必要だろうとも。「骨」なんかは短編ということでその辺甘えてたとこはあると思います。いや、「骨」は「ホラー」なのでまだいいんですけど、他の作品は分類しようがなくてとりあえず「現代ドラマ」に突っ込んでいる節があります。中には明らかにファンタジーに振り切れてしまうものもあるのですが。

    行間にどこまで頼るか。行間のストーリーをどこまで顕在化させるか。

    ここが難しいところで、実のところ、自分でもまだ正解が見えていないのです。いろんな方の意見を窺っていると、(ヴァルヴレイヴのように)「明文化されたストーリー」を蹴り倒す形で顕在化させなければ意味がないという人もいれば、「明文化されたストーリー」と矛盾なく寄り添うように行間のストーリーを組み上げなければ読者を混乱させるだけだという人もいます。いちおう自分なりの考えはあるのですが、それは実作で表明していきたいところです。

    特に、素人の創作の場合、おっしゃるように、こうした趣向は単なる力量不足ととられるリスクが非常に高い(苦笑)。商業作品であっても、ヴヴヴのように十分な理解が得られない場合があります(しつこくてすみません)。書き手にとっては道理が通っていることでも、受け手には不条理と受け止められることがままある。尤も、わたしはその「不条理」の感覚をこそエンタメに昇華したいんですけど。

    不条理のエンタメという点で、わたしが理想としている作品(そして最も好きなラノベ)のひとつが『さびしがりやのロリフェラトゥ』なんですけど、あのくらいキャッチーに描ければ、まだ理解を得られるのでしょうね。実のところ、わたしもあくまでラノベで不条理をエンタメに昇華したものが書きたいのです。

    ここがおそらく、わたしの趣味のニッチなところで、不条理な話が好きなのに、書きたい(読みたい)のはあくまでエンタメで、ミステリで、そしてラノベなのです。これがいっそ文学とかホラーに振り切れれば、むしろやりやすいのでしょうけど、どういうわけかそうはならない。

    新しいものを生み出すのは常にアウフヘーベンの発想。ニッチであればこそ、誰も手を付けていない鉱脈が眠っていることを祈って書き続けるしかありませんね(なお絶賛休筆中)。
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