私はここ一年ほどトラウマの記憶がありました。何度も何度も同じ場面が脳内で鮮烈に繰り返されます。それは20歳の時に、当時担当だったゼミの教授から激怒された事でした。
その記憶がここ2年ほどの間、再びフラッシュバックしていました。今まで生きてきて、他にも嫌な記憶は探せば出てきますが、トラウマモードの時は必ずその教授との記憶が中心にくるのです。教授は老齢でした。また、自らの専門である西洋及び東洋哲学に関しては情熱的で、2年間ほどゼミ生としてお世話になっていました。
実際のところ、彼からは誉められた事の方が多いし、論文作成の過程で話し合った色んな事を思い出しても、非常に充実した好ましい関係で過ぎていった日々でした。
それでも怒鳴られた記憶は忘れられません。そんな自分を自分で恥じています。なぜ今頃こんな記憶を掘り返してしまうのか。もう関わる事もない、もう存命かもわからないような相手じゃないか、と。
衝撃的な記憶を追体験する度に、自分の人間性全体を否定されたようなリアルを感じるのはなぜか。
彼の性格を一言でいえば、「部活の怖い顧問」でした。やや感情に起伏があり、彼の中にある何かに触れてしまうと猛攻撃を仕掛けてきますが、同じ専門を探求する学生として誠実な様子が分かれば全力で支援してくれる先生でした。しかし一度攻撃的になるとどこか冷徹な領域まで相手を追い詰める所があり、説教で失神してしまう女子学生もいました。今どき珍しい、「教鞭をとる」教授だったのです。
それが彼の父性だったと私は思っています。いい面では人情の人であり、悪い言い方をすると強い条件依存を感じます。私がトラウマに侵されている時、彼の父性と私のメンタルがぶつかり、しかし決して溶け合う事はないので心臓にダメージを与え続ける。言葉では「仕方ない事だ」とどんなに説いても変わらない。しかしふと体調が変わるかのように、ふっと心臓の痛みが消える事もある。
葛藤に呑まれている間は、自己と他者は違うものだという当然の前提さえ認識が難しくなるような気がします。そんな状態は恐ろしいです。またあの情景が戻ってしまうのではないかと。きっと教授の言葉で傷付いてしまうのは、彼との関係が長く深いものだったからだと思います。そんな教授の尊敬できるところも含めて、私の心に到達してしまうのでしょう。
当時から今に至るも、やはり人と距離感を掴むのが不器用な自分をなかなか受け止められませんが、不安定なものを言語化する意欲や、気持ちを開示したり笑い合うような人間関係がやはり尊いし失いたくはないものです。