Traffics(across the stories)
星空に向かって、緩やかに焚き火の煙が立ち昇っている。夜の井戸に吸い込まれていく、一筋の道のり。そんなキザなことを考えて、シフォーは苦笑した。
よもや、ここまで追手がかかることはあるまい。相手が帝国であれ、アークライト王国であれ、だ。街道から大きく外れた不毛の荒野。警戒しなければならないのは、どちらかといえば野党の類だ。自慢じゃないが、腕っ節の方はからきしで自信がない。
「これから、どうするつもりなんだ?」
こんな時でも、彼女の声は力を失っていなかった。味方からも、敵からも追われる身分など、並みの精神力ならもたないだろう。
帝国の紋章の入った武具はすぐに捨てさせた。今は、途中で仕入れた旅芸人の服を着せてある。傍から見れば、流浪の旅人の様相だ。フードからこぼれた金髪が、炎を反射してきらきらと輝いていた。
「セレステにあてがある。まずはそこまでだな」
大きな交易都市の領主の息子には、貸しが作ってあった。それがダメなら、『至高の蹄鉄』亭か。何にしても、ここからはまだだいぶ遠い。体力は温存しておく必要があるだろう。
「英雄になりそこねちまったな」
シフォーの言葉に、彼女は「ふん」と鼻を鳴らした。
「無能軍師様だ。ざまぁないよ」
アークライト城の無血開城。それができていれば、彼女は間違いなく帝国の英雄になっていただろう。
バイア要塞での陽動作戦は成功していた。騎士団の注意は間違いなくそちらに逸れ、アークライト城の護りは手薄になっていた。後は見せかけだけでも良い、圧倒的な大軍をもって王都に攻め上がれば。
聡明なメリア・アークライトならば、自らの命を差し出して、民の安全を要求してくる。そう見込んでいた。
「だからって、征服地の人間で軍の水増しをするのはまずかったな」
とにかく数が必要だった。しかし、四方八方に侵略の手を伸ばしている帝国軍には、実際にはアークライト侵攻に割ける兵力はほとんど残されていなかった。
足りない分を補うのに、帝国の将軍たちは被征服民の男どもを徴用した。それが、結局のところ現在の大敗を招きよせてしまったのだ。帝国という国家の在り方の限界とも言える。
「ウィル・クラウドだっけ? 良く通る声だった。この戦争の英雄は彼だ。未来永劫語られることになるよ」
「その代わり、私は帝国の戦犯だ。戻れば全ての責任を取らされて――打ち首だろうな」
ははっ、と自嘲して。
彼女はそのまま押し黙った。薪の爆ぜる音だけが、何もない荒れ果てた原野に響いていた。
「そうだ。すっかり忘れてた」
シフォーは地面に転がしてある荷物の中から、一本の瓶を取り出した。セレステの街の、小さな英雄と美少女。あの二人の姿を見たからこそ、シフォーはここまで来ることができたのだ。
「なんだ、それ?」
興味を持ったのか、彼女が身を乗り出してきた。やはりか、良い食いつきだ。シフォーはにやり、と笑みを浮かべてみせた。
「上物のワインだ。お前、帝国のワインだけが本物だとか、そんなことはもう言わせないぞ?」
ほう、と声を漏らして、彼女はワインを手に取った。まじまじとラベルを眺めて、瓶の底に眼をやって。
それから、ゲラゲラと可笑しそうに笑った。
「お前、シフォー、私はちゃんと教えたはずだぞ。瓶の底の刻印によって、ワインの産地はしっかりと管理されているってな」
シフォーは慌てて瓶を確認した。底面のガラスに、紋章が浮き彫りにされている。指でそれをなぞると、鳥が大きく翼を広げている姿を象っていた。
「それは帝国でも割と有名な果樹園のものだ。大方、共和国方面に密輸するために、ラベルを偽造しているのだろう」
「マジかよ!」
彼女にぎゃふんと言わせようと思ってここまで持ってきたワインが。
実は帝国産のモノであったなんて。
とんだ道化を演じたものだ。
「まったく、相変わらずの粗忽っぷりだな、お前は」
「うるせー。ああくそ、なんてこった」
器用にナイフでコルクの栓を抜くと、彼女は瓶に直接口を付けた。濃い液体が、身体の中を熱く満たしていく。やはりワインは、帝国産が良い。自分にはやはり、帝国の血が流れている。
「このワインは、どこで手に入れたんだ?」
「セレステだよ。『至高の蹄鉄』亭っていう宿酒場だ」
セレステは交易都市で、共和国の中でも強い発言力を持っている。領主のフェブレ公爵は帝国とも商売をしている食えない男だ。木を隠すなら森。多くの旅人が行き交うセレステなら、身を隠すには逆に良いかもしれない。
それに。
「帝国のワインが飲めるのなら、そこにいてやってもいい」
戻れば、命はないのだ。帝国の殉教者になるのなら、それも仕方ないことかとも思ったが。
「お前も、いてくれるのだろう?」
こんな彼女のために、戦場を駆け抜けて人ひとりをかっさらっていくような大馬鹿者までいる。
「当たり前だ」
残念ながら、まだ死ぬわけにはいかないようだ。英雄にはなれなくても。
誰かを愛する人には、なれるのかもしれない。
「連れて行ってくれ、シフォー。私の命は、お前に預けることにしたよ」
何もかもを諦めて、そっと目を閉じた彼女に向かって。
シフォーは問いかけた。
「お前、野菜は好きか?」
「野菜? 何の冗談だ?」
彼女が怪訝な顔をする。冗談だと思うのが当たり前だった。
「しばらくは野菜責めに遭う覚悟が必要だぜ」
もしフェブレ公爵邸が、シフォーの思った通りの状態になっているのだとしたら。
今頃は野菜天下のはずだ。フランシス坊ちゃんも大変かもしれないが、そのぐらいは我慢していることだろう。
何しろ、誰よりも大切なハンナちゃんのためなのだから。
「いいよ、少なくとも、野菜は私を殺さない」
「わかんねぇぞ?」
世界の夜が更けていく。
シフォーはようやく、ワインなしでもよく眠れるようになりそうだった。