とある限定的で特定の基準のもとで対象に優劣をつけ、その最上位になんらかの恩恵があるシステムは資本主義社会の現代にはそこかしこにあふれています。などという本筋にあまり関係のない話は置いておいて、そういうある基準を設けて「人や物」の優劣を判断するとき、当然ながら人は、世間は、その基準のもとのみで「人や物」を比較します。
それが公正だからです。
ところで人というのは費用対効果や報酬系を司る本能的欲求の揺れ動きによって、(とりわけ報酬やメリットにしがみついて生きなければならないこの世界の中では)多種多様な性格をあらわにします。
色々な人がいます。
他者とのコミュニケーションの方法は十人十色でしょう。同じく人とのコミュニケーションを積極的に図れる程度や、図れる状況も。
明るい人も静かな人も、騒がしい人も暗い人も、暴走気味な熱量が好意的に受け止められるギア全開の人も、厭世的な人も、色々。
力をつけてきたときの性格や態度の変わり方も人それぞれです。
自分のことに精神的な余裕が生まれたくさんの人に優しさを注ぐようになる人もいれば、より高みを目指して孤独に研鑽を積み続ける人もいます。
貪欲に地位と権力を拡大しながら自身のブランド力をあげるという行為ひとつとっても、それを傲慢な性格の拠り所にしてしまう人もいれば、逆に親しいひとたちへ「いつもありがとう」と感謝や謝恩の気持ちを還元する人もいます。
根は善人でも表現に癖があって上から目線に見えてしまう人もいれば、あからさまに態度が横柄になる人もいますし、話の場とはまったく関係のないかつ顔の見えない誰かを非難の的にしてそれを批評だと勘違いしている人もいます。たちが悪いとそれで話し相手や自身の正当性、あるいはもっとわかりやすい言葉では「素晴らしさ」を表現・強調しようとする人もいるでしょう。「この分野にはこんな人もいてそれはこういう理由でレベルが低いものですが、この方は違います。すごいです」といった具合に。
なぜ力をつけてきた人の話を敢えてしたかといえば、先に述べた「ある基準での最上位」とはまさにそうした力をつけてきた人たちのことだからです。力をつけてきた人だって人なので、力をつけていない人と同様、人好きのする人もそうでない人もいます。そして力をつけるという一大イベントは、人の性格を良い方向にも悪い方向にも舵切らせる影響力を持っています。
そして当の本人はたいていの場合、そうした自分の変化に気づいていないか、目を瞑っています。
世の中は聖人君子を求めていません。
基準を設けるというのは、そういうことです。基準以外の人間性には遮光板を下ろし、基準の中だけで優劣をつける。公正です。何も間違っていません。それで本当に多様性にあふれた世の中で多様な人たちが日の目を浴び、万人に平等な機会が与えられます。お世辞ではなく、よくできた仕組み枠組みだと思います。
ただそこで生まれる「すごい人たち」は、必ずしもすべてにおいてオールマイティなすごさを発揮しているわけではありません。
能力的にも、性格的にも。
そんなことは普通言葉にしなくても至極当然だと誰もが理解していることなのですが──つまり私が常識的なことをさも大げさに言っているだけなのは承知しているのですが──それでもこういうことは、あるとき気づかぬうちに、ふっと意識からこぼれ落ちてしまうものです。
そして人というのは(多かれ少なかれ)自身に落ち度がないかを探ることを苦痛に思うようできているので、なかなか自分の姿を鏡に映そうとはしません。防衛本能的に。
……というようなことを思う機会が最近多かったので衝動的に長々と書いてしまいましたが、これは別に著名な人に限った話ではありません。すべての人にとって、自分自身をたまに見つめ直すこと──ひと月に1回でも、1年に1回でも──は大事だと思います。そして根拠も足場もなく熱暴走しかけている兆候を察知したなら、意識的に冷却することが大事なのだと思います。
無論、私自身への盛大なブーメランでもあります。
年の瀬に、自戒を込めて。
それと、人のことを小馬鹿にする表現、罵詈雑言、「俺が/私が正しい」と言わんばかりの無根拠な、あるいは感情論的であったり、自分の周囲のことしか考慮に入れていないようなあさはかな断定文、譲歩のできない文言と人は苦手です(私が大人になれば良いのですけど)。
逆にものすごくいろいろなことを考えた上で、多くの可能性や潜在的な第三者の心情を考えた上で、自分自身の信条を強く貫ける方をお見かけしたときは、その姿から勇気も、元気も、感動も、たくさんたくさんいただきます。そういう方や文章は大好きです。