ぼちぼち最新話に取り掛かりたいなあ……と思いつつ。
今月も本業のイレギュラー(というより、スケジュールの見直しがあったのかも)なスケジュールのため、まだ次話のリサーチ&プロット作成で止まっています(´・ω・`)
ですが、5日に二本松に行ってきました。
https://note.com/k_maru027/n/na144e4b27211https://note.com/k_maru027/n/ne1533b961b90実はここで、「日野源太左衛門様」のご子孫様にお目にかかり、歓談させていただいたのですよ!
これは、凄いことだと思ふ(*^^*)
日野様は一介の古老(と申し上げていいのでしょうか)としてお過ごしの方です。ですが、お伺いした数々のエピソードは、さすが歴代の家老職のお家柄!
……というべきものでした。
そして、たまたま多めに持っていっていた「白露」の小冊子を進呈させて頂きました。
約160年の時を経て、落城直前に何があったかお伝えできたことは、幸甚だったのかもしれません。
さらにこの日、笠間市之進様が住まわれていたであろう「池ノ入」も初めて訪れてきました。
ここで市之進様と妙(本名は違いますが)様が幼馴染として育ち、そして夫婦となったのかと思うと、感慨深いものがありました(*^^*)
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また、noteで発表した「8月カフェ」の家主であった田倉親子について詳細を調べるために、「二本松市史2巻(近現代史)」を調べていたところ……。
「大谷信謹」の名前が、二本松の役人や油井村長(旧安達町)として度々登場しているのに気づきました。
私の推測が間違っていなければ、この方は恐らく、「大谷彦十郎家」の関係者です。
というのも、名前に「信」の一字が入っているため。
彦十郎家の男児は代々「信」を受け継ぐ風習があり、また、明治22年に郡制が施行された当時、被選挙権(立候補権)を持つのは高額納税者に限られていました。
恐らくこの史実からしても、信謹氏はそれなりの財力の持ち主であり、代々藩の重職を勤め上げてきた彦十郎メンバーだと思われます。
考えられるのは、鳴海・衛守の弟……でしょうか。
いずれにせよ、鳴海には娘しかいなかったようですが、明治22年に成人男子(それも結構重職についている)ことから、彦十郎家の子孫は、今でも何等かの形で二本松に住まわれている可能性が高そうです。