【『比翼は連理を望まない』中秋節記念SS】
※本編第一部が春〜初夏、第二部以降が夏なので、若干未来軸になります
※ ※ ※
「中秋節、か」
隣からポツリと漏れ聞こえてきた声に、黄季は思わず隣を振り仰いだ。そこにいる麗人は何かに興味を引かれているのか、足を止めてどこかへ視線を投げかけている。
──珍しいな、氷柳さんが何かに興味を引かれて足まで止めるなんて。
二人がいるのは、市の雑踏の中だった。修祓現場から泉仙省へ引き上げる帰路の途中であるせいで、二人とも出仕着に身を包んでいる。
後ろでひとつに結わえ上げられた氷柳の黒髪が、市の雑踏を渡る風に吹かれて揺れていた。そんな何気ない姿までもが幻想的な画になるのが氷柳である。
──その『幻想的』っていう雰囲気が、実は『天然』とか『虚無』とかから生まれてるってことに、一体どれだけの人が気付いてるんだろうなぁ……
普段の氷柳は良く言えば冷静沈着、悪く言えば万事に興味関心が薄い。『お前に出会って多少はマシになった』とは付き合いが長い慈雲の言だが、それでもまだ氷柳が自ら俗世のことに興味を抱くのは珍しいことだ。
一体何がその珍事を引き起こしたのかと、黄季は氷柳の視線の先を追う。さらにその先にあった物が何であったのかを理解した瞬間、黄季は思わず目を丸くしていた。
──月餅?
氷柳が視線を注いでいるのは、甘味を商う屋台だった。中秋節である本日は店先の目立つ場所に月餅が山のように積まれている。
──氷柳さん、月餅を見て中秋節と結びつくくらいには、『月餅』っていう存在を知ってたんだ?
あまりにも自身の手料理への食いつきが良すぎて黄季は忘れがちなのだが、氷柳にとって『食』というものは必須ではない。
近頃は氷柳も人の中にいるようになったので泉仙省の関係者達とともに食事を囲む機会も増えたのだが、氷柳は食事に手を付けているのかいないのかも分からないくらいに少食なのが常だった。
黄季と二人きりだと外食でも人並みには食べるのだが、それでも少食の域だ。氷柳が自主的にモリモリ食べるのは、出会った当初から変わらず黄季の手料理のみである。
「食べます? 月餅」
そんな氷柳が屋台物の月餅に興味を示すとは、余程月餅に思い入れがあるのだろうかと、黄季は氷柳の横顔を見上げながら問いかける。その声にようやく視線を屋台から外した氷柳は、黄季にその視線を据え直すと微かに首を横に振ったようだった。
「いや、食べたいわけではない」
「でも、珍しいですよね? 氷柳さんが甘味に興味を示すのって」
『特別好きというわけでもないでしょ?』と続ければ、氷柳は視線だけで微かに頷く。
その瞳が、何かを懐かしむようにわずかに細められた。
「まだ郭の屋敷にいた頃、中秋節では高坏に月餅を山程積み上げて飾るのが、毎年恒例でな」
宴が始まると、当主から集った親族へ月餅の振る舞いがあったのだと、氷柳は常の淡々とした声音の中に微かな穏やかさを溶かして語った。親族への振る舞いが終わると使用人達への振る舞いも行われ、その中に自分も混ざることを許されたのだと。
その声音にも、昔語りにも、黄季は思わず目を瞠る。
「私は普段、人が集まる華やかな場所には出させてもらえなかったし、物を食べるのも……まぁ、永膳があまり、好まなかったからな」
氷柳がこんな風に己のことについて語るのは珍しい。
過ごしてきた日々が一言では言い表せない出来事と感情に彩られているから、というのもその理由のひとつだが、当人に言わせると『ぼんやり過ごしすぎていたから、特段語れるほどのことがないだけ』とのことだった。その言葉にはきっと、当人も意識できていない複雑な思いがあるのだろうと、黄季は勝手に解釈している。
だからこそ、氷柳がただでさえ珍しい昔語りを、いつになく柔らかな声で紡ぐのが珍しかった。
「だが毎年、中秋節の月餅だけは、私にも永膳と雪榮様から振る舞いがあって、食べることを許された。縁起物だから、と」
だから屋台先に積まれた月餅を見て、思わず懐かしくなってしまった、ということなのだろう。
「そう、だったんですか……」
黄季にとって、郭永膳の存在は面白くない。黄季の人生において明確に『敵』と断ずることができる、ある意味珍しい人物だ。
だが氷柳にとってはそうではないのだと、時折こうして知ることになる。
慈雲や、貴陽や、同じ時を過ごした人々からも。基本的にいつも漏れ聞こえてくる氷柳と永膳に関わる話は仄暗く、苛烈なものが多いけれども、本当に時折、こんな風に、懐かしむような、切ないような、そんな感情が染み込んだ言葉がこぼれてくることがある。
そんな時、いつも黄季はなぜか、少しだけ泣きたい気持ちになる。
悲しいからではなくて。悔しいからでもなくて。
……きっと、自分が亡き家族を思う時のような気持ちが、みんなの中にもあるのだろうと。少し切ない気持ちが、自分のいない過去に対する嫉妬に勝ってしまうから。
「教えてもらえれば作りますよ。氷柳さんの記憶の中にある月餅」
そんな感情をそっと心の奥底に押し込んで、黄季は氷柳に笑いかけた。予想外の言葉だったのだろう。氷柳はそんな黄季にパシパシと目を瞬かせている。
「完全再現は難しいと思うんですけども。大体の感想を教えてもらえれば、こんな感じかなーってのは作れると思います」
「……できるのか?」
「だって、食べてみたいんでしょ? もう一度」
記憶の中にいる人と、もう一度時を過ごすことはできないし、できればそんなことは望んでほしくもないけれども。
だけど『食』にとことん興味がないはずである氷柳が、自分の手料理以外で初めて見せた執着だったから。
だから余程その記憶は氷柳にとって大切なものなのだろう。だったら黄季だって、その記憶は大切にしたい。
「……そうだな」
黄季の内心がどこまで伝わっているのか、氷柳は黄季を見つめたまま小さく呟くとフワリと笑った。
氷の牡丹に喩えられることが多い佳人の微笑みは、ともに時を過ごすようになって徐々に生身の人間の温もりを帯びるようになったと黄季は思う。
「私の思い出の味を、お前と共有できたら、嬉しい」
何度見ても目を奪われる微笑みに今回も見惚れていた黄季は、続けられた言葉に思わず目を瞠った。まさかそう返されるとは思っていなかったから、思わず無防備に目を見開いたまま黄季は固まってしまう。
だが氷柳はそんな暇を黄季に許しはしない。
「さて。そうと決まれば急がなくては。泉仙省への報告は、材料を調達してからでいいな。ここで買い物をしてから泉仙省に戻り、その足で帰宅するとしよう」
黄季の手を取った氷柳はクルリと身を翻して市の雑踏の中に身を投じる。進行方向が帰路から外れたところから察するに、どうやら本気で帰還報告よりも先に月餅の材料を買いに行くつもりらしい。
「えっ、ちょっ……氷柳さんっ!?」
「退魔師に二言は許されない」
一瞬だけ黄季を振り返った氷柳は、常の無表情でありながら期待に満ちた顔をしていた。深い漆黒の瞳には微かな笑みと光が散り、黄季を連れて進む歩調はいつになく弾んでいる。
「お前から私に約したんだ。こんなに楽しみな中秋節は過去になかった」
もちろん黄季に二言などない。念押しされなくても月餅はきちんと作り上げるつもりだった。
だけど。
──あー……もう。
氷柳に手を引かれたまま、黄季はそっと苦笑を浮かべた。
──今日って、まだ仕事積まれてたはずなんだけどなぁ……
でもまぁ、氷柳がこんなにはしゃいで喜んでいるのだ。ここ最近根を詰めて働いていたわけなのだから、中秋節の日くらい多めに見てもらおう。そもそも今日だって世間は公休日である中、泉仙省の人間だけが普段と変わらずあくせく働いているわけだし。
そう開き直った黄季は、手を繋がれたまま氷柳の隣に並んだ。そんな黄季に氷柳はますます笑みを深める。
「郭の屋敷で振る舞われてた月餅って、どんな感じだったんですか?」
「かじると、ザクザクしていた」
「あぁ、砕いた胡桃とかが入ってたんですかね? 餡の色は何色だったとか、覚えています?」
「白っぽい……いや、黒い時も、あった、か?」
「量が多かったって話ですし、何種類かあったのかもしれませんね。いくつか作ってみましょうか?」
「いいのか? ならば……」
弾んだ声が、雑踏の中に溶けていく。
そんな二人が進む市の空気には、いつになく甘い香りが漂っていた。
【了】