どうも、句読点の多さ(ひいては関係する息継ぎのタイミング)の話は、書く時の作者の脳内映像、そして読んでいただく時の読者の脳内映像、それらがどんなものになるか……という話だったらしいとわかりました。
この話にまつわって、思い出すのは月子さんのエッセイです。
ゲームをツクるように小説を書く
https://kakuyomu.jp/works/16817330652829980795/episodes/16817330654770270444
これはまさに今回の話題の抜群な実例だなあ、やっと少しわかったなあ、と思いながら今日のフィードバック記事を書いていました。
月子さんの「迷子の風船」は僕の脳内映像ではアドベンチャーゲームではなかったけれど(そもそも僕の頭の中では映像になること自体がどうも少ない)、代わりに素敵な雰囲気を味わいましたし、それは月子さんが描いたからこそ得られたものだと感じました。
あるいは『金欠ローグ』。これは僕の中で絵柄が出た珍しいパターンで、やっぱり月子さんの脳内作画……スーファミのRPGめいたドットと、そして漫画方向の絵……とは割とズレているのではと思うのだけれど、ダンジョンマスターの姿が鳥山明の自画像でポンと出てきて、以降その絵柄にアレンジを加えたような空気感になりました。
この読者経験を振り返ってみて、「作者の脳内映像の感じと読者の脳内映像の感じは全く一緒にはなかなかならないが、それでもお互いが『いい感じにしよう』と好意的に動くことで、なんだかグッドになっている」ということがしみじみと感じられました。
好意的に脳内映像を調整する……つまり、読者の方が優しさや「楽しむぞ」という思いや作者(作品)への信頼を発揮してくださることで成り立つ……という意味で、小説は本当に共同作業のたまものなのだ。そんなふうに思いました。
そしてひるがえって、自分のこと。自分が作者としてものを書く時のことにも考えが転がりました。
僕は絵がものすごく下手で、そのせいか脳内映像は「映像」よりも「感触」や「取り込んだ作品の切り貼り」「見た目や声、喋り方を覚えている既存キャラたちを代役にした人形劇」になることが多いです。やる夫スレみたいな感じというか。
これは読者として作品を読む時も、作者として文章を書く時も同じで。
いやちょっと違った。作者として書く時は、なんというか、「絵を描く方が線を引くのを楽しむみたいに」文字を選んでいるみたいです(これは読者の方が使ってくださった表現なので、「よりによって画伯のオメーが絵のたとえかいな」となるもっともなツッコミは……許して頂けると……)。
だから、脳内映像を何とかして伝えようとするというよりは、脳内映像が適当なのをいいことに結構遊んでいるところもある気がします。
とはいえ、基本は頭に浮かんだものをなるべく一貫したやり方で伝えようとはしているみたい。
だけれども、その辺りがどうも良くも悪くもシンプルに行きづらいのだな、だから文章をどうするかで考えることになっているのだな、と、そんなふうに思った次第。
皆様はどんな脳内映像を使って主に描き、そして読んでいますか。そもそもそれは映像じゃないぜ、という方も中にはおられますか。
皆様の作品を成す文体は、どんな脳内映像から生まれていますか。また、どんな脳内映像で、伊草の小説を読み、素敵な感想を下さっていますか。
よかったらぜひ教えてくださいまし、知りたいです。と思った夕べでございました。
(関連記事→
https://kakuyomu.jp/works/16817330664681347529/episodes/16817330665253310039 )