今日読んでた本にはそう書いてあった。
もしその芸術家の個性が鮮明なら、たとえ彼が千の欠点を持っているとしても、私はきっと許してしまうでしょう。
それが言える時点で、彼もすでに個性鮮明な人だと思う——類は友を呼ぶ、そういう人を引き付け合うような引力は存在する。
もし彼らがそのような出会いをロマンチックな言い方にするなら、運命という名は一瞬で誕生するでしょう。
しかし、本当にそれでいいのか?
両思いならいいっていうのは、人間特有のギブ・アンド・テイクのことだ。
男が「彼女は俺が好きです」と言って。
女が「彼も私が好きです」と言えば、確かに理論上では矛盾がない。
ただし、矛盾のない理論は自身の無矛盾を証明できない。ただの思い上がりかもしれません。私にも、いままで勝手に運命視されたことがある。しかし、翌々、そういうことを言っていた連中は本性を曝す。キミのためと言って、自分のため。作品を作りたいと言って、崇められたいなだけ……人間の悪性が変わるはずもないのに、人間性の輝きを褒め讃える作品が多いに存在するのは何故?自分の欺瞞行為に気づかないふりをするのは何故?自分が出来もしない物語を作って、その空想になんの意味がある?
人類は愛と覚悟で時間に勝つ。と、最近その一言を見かけた。
魅力的な考えです。でも、“勝つ”というのは芸術的表現でしかない。誰も時間を本当に理解できない。極端な言い方になりますが、時間の角度から、人類の存在は最終的に無に等しい。勝つというのも、人類の勝手な思い込みでしかない。世界は世界、時間は時間だ。多分、それだけのことを受け入れないのは、人が圧倒的な残酷に絶望するからだろう。だからこのような幻想で自らを囚われてそうやって自我を守っている。
そのような行いを私は恥だと嘲笑います。
本当の尊い物を救わない人間なのに、尊い物に救われる夢を見るのは、とても気持ち悪いことと心底思います。見るに耐えません。
長々と語ったが、まあ、単なる存在主義者の自己懐疑です。はぁ……生きるのって、全く退屈なことです。