東京師女子範学校:道府県に設置された旧制の女子中等教育機関のモデルケースとなった。
1906年、東京在住のとある女学生の進学進級を例にとってみたい。
1906(明治39)年 05月05日生 00歳 東京市
1910(明治43)年 04月 03歳 東京女子師範学校付属幼稚園
1913(大正02)年 04月 06歳 東京女子師範学校付属小学校(現:文京区湯島1丁目東京医科歯科大学)入学―― 一般人の主流は尋常小学校
1919(大正08)年 03月 12歳 同小学校卒業 04月 12歳 東京女子師範学校高等女学校入学
1923(大正12)年 03月 15歳 同高等女学校卒業 04月 東京女子高等師範学校入学 ―― 文教育学部 英語学・英文学専攻
1927(昭和02)年 04月 20歳 ■県立■高等女学校に英語教師として着任
※同期の学友は、女子師範学校・高等女学校・小学校教員および幼稚園保母などの養成に従事する。
※同期の学友のごく一部が旧制大学進学:一例
1927(昭和02)年 04月 20歳 東京帝国大学入学
東京大学OBで構成される東京学士会館を訊ねるとロビーの一角に、卒業生集合写真が展示されてあり、その中に数名の女学生が写っている。恐らくは、東京女高師ほか各地の女子高等師範学校出身者だろう。なお東京女子帝国大学構想はあったが、東京女高師がお茶の水女子大学昇格として実現したのは1949(昭和24)年である。また旧制女高師が廃止されたのは1952(昭和27)年のことだ。
制服について:
セーラー服は文字通り英国海軍兵士の制服で、子供服だった。
私立平安高等女学校(京都:現・平安女学院)1920(大正09)年、私立金城女学校(名古屋:現・金城学院)、翌年私立福岡女学院、フェリス女学院(神奈川)でセーラー服を採用。福岡女学院は体操着としていた。以降、各高が制服として採用するようになる。
以降、大正モダニズムのなかで、男子学生(東京大学)が陸軍風の制服なのに対し、女子学生は海軍風の制服となった。なお東京女子師範学校の制服は鹿鳴館で着るようなドレスを採用していた。そんな写真をみた。
東京女子高等師範学校wiki
「制服」
歴史教室では和装と洋装が混在(1936年、歴史教室)
洋服姿の学生(1936年)
東京女子師範学校創設時は、紺色と浅黄色とのタテ縞木綿袴(平袴形・官給)に上衣は通常の衣服だった[3]。頭髪は唐人髷に女子師範の文字入り簪を記章とした[3]。袴も簪も明治12(1879)年ころには廃止され、明治18(1885)年には洋服を着る者が多くなり、生徒だけでなく教師も着用し、その他の女子師範でも教員一同洋服を着ることになった[3]。明治19(1886)年8月に文部大臣森有禮の西欧的な教育政策から、洋服が本校生徒の制服となり、他の師範学校にも波及した[3]。
注釈
^ a b c d 明治後期小学校女子教師の服装について : 裳袴・筒袖を中心にして岩崎雅美 (日本家政学会, 1993-01-15) 日本家政学会誌. 44(1)
引用:
「セーラー服の歴史」トンボ学生服」
https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/style/style03.html「セーラー服」はじめて物語:CBC
https://hicbc.com/magazine/article/?id=news-ronsetsu-post-2654「学生服」wiki
挿絵:「姫《おひい》先生の出勤」
1927(昭和2)年、県立|岐門《くなと》女子高等中学校通学路にて。
物語登場人物:手前にいる騎乗のセーラー服の女子中学生が物部寧音《物部》、中心にいる騎乗の袴姿女性教師が千石片帆《せんごく・かたほ》、奥にいる自転車に乗った袴姿男性教師が吉田兼好である。