凄く不安になることがある。
私は――本当に面白いモノを書けているのか。
私は私の中で、それなりに面白いモノを目指して物語を書いていて、それなりに自分の中では面白いと思うモノを生み出していると思う。
でも、それは他人から見たら、ありふれたそこらへんの石ころぐらいの価値しかないのではないか。
だからこそ、私の書く話は評価されないのではないかということ。
それは実際のところ、その通りなのだろう。
もしも、仮に最後まで読めば面白いから――なんていう言い訳を持ち出したとしても、それならば、最後になってから面白い物語と言うのが全て評価されていないのか?といえば、そういう訳でもない。
つまり、私にはまだ、圧倒的に足りていない何かがある。
それを見つけなければならない。
そして、その可能性を三つ思いついた。
一つは素直に、物語の掴みのエンタメ性。
薄々と言うか、気づいていた事実だけれど、私の物語は大半が序盤がゴミだ。タイトルであったり、第一話の引きであったり、そういった力強い柱が、私の物語には存在していないのだ。
まずは、それをしっかり考えて物語に仕込むという戦略をしっかり組むべきだろう。
一つ目は当たり前と言うか、やって当然のことでもあるのかも知れない。
そして、もう二つ目は、〝プロットの雛型とはひとつだけが完成形ではない〟ということ。
私は今まで、面白い物語の雛型さえ作ってしまえば、それをベースに面白い物語を量産できると考えていた。
これっていうのはある意味では正しいがある意味では間違っている。
なぜなら、そもそも物語の方向性とはまちまちで――面白いプロットの雛型というのは、その方向性によって、強い武器であっても、その中から取捨選択する重要度が変わってくるからだ。
面白い要素を見つけたからと言って、そのを全てぶち込むのは間違いであると思われる。むしろ、物語に合わない武器と言うのは使わない方が良いまであるハズだ。
故に、雛型の雛型とういうのも信用せず、時には切るべき部分も出てくるし、書きたいと決めた物語のポテンシャルを生かせるような選択を選ぶべきなのだろう。
そして、三つ目の理由として挙げられるのは、〝面白い〟だけが物語の全てはないということ。
主に私が感じるのは〝好き〟かどうかだ。
はっきり言って、面白くない物語であっても〝好きである〟という現象がこの世には存在する。
私は今まで、面白いモノが書きたいと思って面白くない邪魔になりそうな要素を削ってみたわけだけれど、この〝好き〟っていうのは、人を惹きつける面白さの先に繋がる要素に成り得ると思う。
面白いだけではなく、これからは好きかどうか、というのも評価基準に入れて、いろいろな取捨選択をすべきなのだろうなぁと、思った。
……書けば書くほど、執筆って難しいなぁ、なんて思う。
私は日の目を見ることはあるんだろうか。
そもそも、私は日の目を見たくて書いているんだろうか?
私は面白い物語が書ければ、正直に言ってそれで充分だ。
私って奴は、そもそも、そのために物語を書き始めたのだし、今の生活に不満もない。
物語を書くのは好きだし、それをこうやって届けられる場所があるだけで、私は幸せなのに。
私なんかの話に付き合って頂いて、いつも本当にありがとうございます。
たまには気弱になることもありますよね。
にんげんだもの。
みつを笑