感想メモ
前回の企画ならば、ある程度文章を抜粋していましたが、今回の作品の場合、文章のほとんどは状況・行動の説明であるようなので、抜粋するほどのものはなかったです。また、作品全体としてもよくある話の域を出ていなかったと思います。深掘りしないいまの状態で評価点があるとするならば、おそらくはその話をたくさん書いていることになるかと思いますが、時代の流れとして、今後は文章系の生成AIが流行る可能性が高いと見込んでいるため、シンプルにたくさん書いていること、連載が続いていることを評価点に据えるのは厳しくなっていくように思います。
まず、話の形をシンプルにするために、いくつかの要素をはぎ取っていきます。異能系ミリタリーというのが大まかなジャンルかと思いますが、まずそれをはぎ取って、序文の二人をヒーロー・ヒロインとしておきます。これらはロマンス的な意味のヒーロー・ヒロインではなく、語り手の困難に関する問題解決能力が高い存在と仮定しておきます。次に、開幕から悲惨な目に遭う語り手がいて、あとは悲惨な目に遭わせた要因たる敵がいますね。これを整理すると悲惨な目に合わせた原因たる敵は加害者であり、語り手は被害者の属性を帯びていることがわかります。次に、その語り手を助け、被害者に制裁を加えたのはヒーロー・ヒロインであり、社会ではないことがわかります。語り手が所属している組織、あるいは所属していた組織は、語り手の身の上に同情せず、決めつけに近い方法で語り手を悪と判断しています。ただ、語り手の眼前では危険度の低い仕事で死傷者が多数出たということに対し、陰謀めいた仄めかしがされている、と。ここまでの関係を整理すると、以下のようになるかと思います。
語り手(被害者)
敵(加害者)
ヒーロー・ヒロインは、敵を倒す能力を持つ
社会(組織)は、語り手個人の生存に対してあまり興味がなく、積荷をどこかからどこかへ輸送させる間に、非公式な方法で「横流し」しようとしていた可能性がある、と。
その後、語り手はヒーローたちの手で救出され、街の雑踏の中へ──「人を隠すなら人混みの中」といった調子で話が続いていることがわかります。
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おそらくこれは筆者の癖なんだろうと思いますが、語り手に開幕の語りをさせるときに名前を述べさせるやり口は、作中の雰囲気に反して非常に幼い印象を与えると思います。今回、企画に参加された作品と、念のため最新っぽいものもチラッと覗いて確信しましたが、「〜〇(私、俺)、〇〇は」という構文にも適切な位置があるかと思いますが、少なくともスカした態度の荒廃モノには合わない食べあわせだと思いました。少年漫画とか、精神年齢が幼い人向けの名乗り方なので、二作目の子どもが使う分には、違和感は薄かったと思います。ただ、違和感が薄いと言っても小説らしいかというと疑問は残ります。なぜならば、名前というものは、あまり価値のない記号だからです。それは、拳銃の彫刻(エングレーブ)に似ています。だから、一部の物書きは名前に特殊な装飾を施します。たとえば、いちばん分かりやすいのは西尾維新でしょうね。ぱっと見で覚えやすく、かつ名前自体がそのときの物語の意味を内包していることがあります(例、戦場ヶ原ひたぎ、忍野忍、とくに忍野忍の場合はハートアンダーブレード、刃の下に心ありのような言い回しがあったと記憶しています)。もしも仮に、そのような意図のない名前だったならば、名前自体をキャラの語りの頭にもってくるやり方は、その語り手の幼児性の発露と解釈できます(これは並行して漫画的なやり方で文章を構築しているということでもあります)。もちろん、なんらかの部隊に所属しているにもかかわらず現状認識を怠り、状況に流されるままの語り手は、とうてい訓練された人間とは思えない幼児性を示し続けている。なので、それはそれで問題ないと思う一方で、その幼児性に対してなんら言及しないというのは、いささか読者の行間を補う能力に期待しすぎていると思いました。これに対するよくある反論の一つとして、「これはライトノベルだから」というのが挙げられます。
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語り手の幼児性については、「知らない方が良いこと」あたりでも示されていて、おそらく語り手という役割が背負うべき能力の程度に制限がかかっているのだろうという感もありました。そして、その幼児性を克服し、人として成長するというのが話の軸の一つなのだろう、と。だとすると、早めにそうであることを自覚するような言い回し、あるいは自覚させるような言い回しは筆者が期待するシーンよりも早く成長を促すおそれがある。このあたりでわたしは、読むのをやめました。
わたしは、基本的に語り手とヒーロー、ヒロインが示す人間性には、なんらかのつながりがあると思っています。なぜなら──(生成AIによってこの前提は数年後には破綻しますが)──語り手とヒーロー、ヒロインは両方とも同じ書き手から生まれたものだからです。つまるところ語り手とは書き手の現実のふるまいであり、ヒーロー、ヒロインとは語り手の理想のふるまいであると解釈することができます。たいていの理想のふるまいは、それが理想であるが故に少なからず魅力を帯びます。カッコよくありたいとか、賢くありたいとか、美しくありたいとか、強くありたいといった理想は、少なからず人を惹きつけるものです。この中で作中のヒーローとヒロインが保有しているもの、さらに言えばいちばん目につきやすい素養は「英雄的素養」であると言えるでしょう。社会(組織)に対して抵抗できる程度の力を保有しており、社会と対等に会話することができ、理不尽な処遇がなされていると思ったなら、それに対して彼らなりのやり方で抵抗することができる。これは、前の企画に参加された「もってぃさん」の作品と違って、「まだ神様はいる」と信じているのと似ていると思いました。残念ながらその彼はアカウントを削除されたようなので、実際に読んで比較することはできませんが、シンプルにあなたの作品のような単純なヒーロー・ヒロインが不在であり、その不在を補う形で組織が発達していると仮定すると、おおむね間違いではないです。その過程において、その組織は幼児性を脱却しており(あからさまに陰謀めいた主張に対して反応をしない)、思慮深さを獲得していました。ただ、思慮深いということは、利益や損失を予見したり、大きな快楽を入手したり、大きな苦痛を回避したりするために現在の快楽を慎み、現在の苦痛に耐えよ、という命令が刻印されているということで、どちらがよいかを判断することは、字面から想起される優劣ほど容易ではありません。ときには単純なヒーロー・ヒロインの理想のほうが価値をもつことがあるからです。
> われわれは行政機構なるものの真っ暗な腹の中にいる。行政機構とはひとつの機械だ。完全であればあるほど、個々人の自由意志は排除される。人間が歯車のひとつとして機能する完璧な行政機構のなかでは、もはや怠惰も不誠実も不正も入り込む余地はない。
だが、機械があらかじめ定められた一連の運動しかできないのと同じように、行政機構はなにひとつ新しく創造することはない。それは管理するだけだ。これこれの過失にはこれこれの処罰を適用し、これこれの問題にはこれこれの解決を適用する。行政機構というのは、新たに生じた問題を解決するようにはできていないのだ。単なるプレス機械に木片を挿入したところで、完成した家具が出てくることはない。状況に応じて臨機応変に機械を対応させるためには、誰かがその機械を改造する権利を持っている必要があるだろう。しかし行政機構は人間の自由意志から生じる不都合を防ぐために作り出されたものであり、その複雑に組み合わされた歯車装置は人間による干渉を拒む。時計師の手が介入してくるのを拒むのだ。
サン=テグジュペリ 戦う操縦士
あなたの作品の組織は「行政機構」であり、ヒーロー、ヒロインは時計師であると仮定できます。そして語り手は、その「行政機構」というひとつの機械を動かす──換えのきく歯車であると思います。その歯車がどういう形であれ成長して、行政機構を乗っ取るのか、それとも時計師に転ずるのかはわかりません。ただ、応援ボタンを押したところまで読んでみた結果、ここまで解釈することはむずかしくない。しかし、その一方で、おそらくここまで筆者のなかで明確な言葉は構築されていないだろうと思いました。その有無を定めるのは、道中の言葉の使い方による積み重ね、言葉への理解、信頼によるものだと思います。ただ、昨今の娯楽物の程度からするに、もはや信頼など無用の長物であり、粗製濫造でも購買数が一定の値に達すれば、民主的な地位を得られるのも確かです。そういういまどきの創作事情が垣間見える作品でした。
以上。