このノートでは直感的に思ったことを書いています。利便性を加味すると当人の作品の応援コメント、あるいは自分で企画用と題して公開してしまうのがよいのですが、どれも私的なやり取りには適さないと判断しました。確認するのは多少不便でしょうが、ご勘弁を。以下は、わたしが読みながらメモしたことなどの移しです。
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> 甘美
死や血などを甘美だと、甘くて美しいものだと表現したがるのは、なぜだろうか。端的には俗な表現である一方で、俗な表現になるにはある程度の合意が必要になる。たとえば文字の起源が絵にあるという話は有名である。ここでは、その起源の是非がどうこうではなく、たとえば「山の絵」から「山」が定義されていくような、集団がそう思う合理性について言及している。平易に言いかえるならば「もっともらしさ」である。そうするとわたしにとって死や血は「鉄臭くて、生臭い」ものであり、「甘くて美しい」ものではない。ただし、考え方として理解できる部分も存在する。
たとえば、ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイブ」には以下のような言い回しがある。
> 「貴君にとって、あの女(アリシア)の真の人格は、あの女の美しさの輝きが貴君の全存在中に目ざました《幻影》にほかなりません。この《影》だけを貴君は愛しておられる。この《影》のために死のうとなさる。貴君が絶対に現実的なものと認めておられるのは、この《影》だけなのです! 結局、貴君が呼びかけたり、眺めたり、あの女のうちに創造したりしておられるものは、貴君の精神が対象化された幻ですし、またあの女のうちに、複写された貴君の魂でしかないのです。そう、これが貴君の恋愛なのですな。」
この言い回しの中に登場するアリシアという女性は現実に存在するとされている。対する影とは、そのアリシアの外観を完全に模した人工美女のアダリーである。アリシアは恵まれた外観を持ちながらも低俗な物質主義に毒されている。この場合、わたしが重要だと思うのは「貴君」がそれを見抜けずにアリシアの外観を起点とした妄想に浸っていることではない。同様に死や血を甘美だと「みなした」ことそれ自体にはない。重要なのは、「なぜそう思ったか」である。
山という言葉を聞いて人々が思い浮かべる山は、それぞれのディテールは違っても、だいたいは同じである。だから、山が海になることはない。しかし、死や血のような概念になってくると天地がひっくり返るような矛盾した表現が成り立つ。それは、「美しくて醜い」のであり、「醜くて美しい」。古代現代問わずこのような矛盾した表現を両立させられる人は少ない。だから、これを読むのは作品を描いた筆者のみであると想定しているし、また、筆者が読んだとしてもどこまで理解が及ぶのかは謎である。さらに言えば、わたしは自らの言葉を理解させやすくするための要点を意図的に省いているため、通じにくい部分もあろうが、このあたりは思想の制約であるため、平にご容赦を。
ここまでをまとめると、「甘美」という表現を選んだ理由があまり見えなかった。あなたにとってなぜ死や血は「苦醜、あるいは醜苦」ものではなく、「甘くて美しい」ものなのか? 俗な表現を当てはめた、主人公の設定だからそうしたというのでも結構だが、私的にはあまり共感できる表現ではなかった。
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次。
> 桜。向日葵。金木犀。梅。人の手で慎重に整えられた、人工的な自然。同居しないはずの四季が一様にさわさわと揺れる。
基本的に魔法を題材に選ぶときは本当に魔法である意味などあまりなく、魔法によって誇張すること、デフォルメすることを免罪してほしいという心理が見える。それらはごく当たり前に使われているので、心理として自覚されることはまずない。SNSに顔写真をアップロードするときに「顔を盛れているかどうか」、「顔の治安がいい(化粧や編集などによって全体が整えられている)かどうか」を気にするのと似ている。しかし、実際は魔法などを組み込むまでもなく、現実に上記のような光景は広がっている。
ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」には次のような文章がある。
> われわれは日常生活の全面的な組織化、均質化としての消費の中心にいる。そこでは、幸福が緊張の解消だと抽象的に定義されて、すべてが安易にそして半ば無自覚的に消費されるショッピング・センターや未来都市の規模にまで拡大されたドラッグストアは、あらゆる現実生活、あらゆる客観的な社会生活の昇華物であり、ここでは労働と金銭ばかりでなく、四季さえもが廃絶されようとしている──調和のとれた生活リズムの遠い名残りすらついに均一化されてしまったのだ。
中略。
象徴的な機能はすでに失われ、常春の気候のなかで「雰囲気」の永遠の組み合わせが繰り返されるのである。
わたしにとって直感的に、先の筆者の文章に違和感を覚えたのは、あえて目につくまでもなくそうだからである。現代ですでにそうであるものを、現代よりさらに未来、SF要素を「魔法」という語句に収めていると思われる作中において、「四季を廃絶すること」はとっくの昔に当たり前になっているものであると仮定できる。ちなみに現実において四季を廃絶できるかというと困難がつきまとう。エアーコンディショナーは地球温暖化を促進し、夏に冬を招来しようとすればするほど夏がより苛烈になるのだとすれば、最終的には乾季と雨季を繰り返すような「二季」になる可能性が高い。いや、正確には春と秋のような「寒くもなければ暑くもない」、「暑くもなければ寒くもない」という微妙な温度を体感する機能が、日本人から失われると仮定している。ただし、それはわたしの死後の話であろうことは想像に難くなく、どうでもいいことである。
ここまでをまとめると、ところどころは細かな設定が覗いているものの、常識に対して逆を張ったような表現が散見された。しかし、なぜ常識に対して逆を張ったような表現を用いたいのか、という点はあまり見えなかった。同居しないはずの四季は、作中で遠い昔とされているころからすでに人為的に同居可能になっており、あえてそれを作品内で指摘する意図が見えなかった。ゆえに、あえて好意的に解釈するのならば、現代の状況をエスカレートさせ、デフォルメし、魔法という法則で一本化することによって、ある種の寓意を読者に示したかったのかもしれない。この部分でもそうだが、全体的に|人為的、または人工的《アーティフィシャル》なものに対する抵抗を感じた。この部分は、わたしが個人的にしたためている作品でも、以下のように表現している。
> わたしは名前や名付けという概念に価値を感じていなかったので、彼のことはただ"彼"と捉えていた。他者との区別とはそんな|人為的、または人工的《アーティフィシャル》なものではなく、内から自ずと湧き上がってくる思想でなされるものだと信じていたせいでもあった。
おそらく通じるものがあると思われる。
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最後。
読んでいる途中で引っかかった表現は以上である。ただ、引っかかったとは、良い意味と悪い意味が存在する。一般的には淀みなく流れることが是とされるが、それが常に良いこととは限らない。なぜなら淀みなく流れるということは、印象に残らないということだからだ。組織や集団行動において印象に残らないことは交流を円滑にする点で有用であるが、個人技である小説においては、むしろ印象に残ることのほうが重要であると思う。ただ、そうやって印象に残ることを是とすると、今度は意図的に印象に残ろうとして醜くなり、印象に残らないこと、淀みなく流れること、引っかかりのないことが推奨され始める。
わたしは、上記の二点以外は特に強い印象に残らなかった。魔法の四つの原則から筆者の狙いを分析することもできただろうが、わたしが読んだのは第一章までで、それ以上については、今のところ読みたいとは思わなかった。なので、ここからは雑感に移る。
全体的に個人の好みであるが、主人公の悲惨さを軽減しようとして行われる周囲の反応の軽さが合わなかったように思う。小説は特にそうであるが、「現実ではそうなっていた、筆者の経験としてそうだった」としても、そうしないほうがいい場合がある。
たとえば、「すべてがFになる」で有名な森博嗣氏は、「工学部・水柿助教授の日常」において以下のように語っている。
> そもそもミステリィとは何か、と水柿君は考えてしまう。それは、一部が隠されたものの筋道だ。一部が自然に隠れていることもあるし、人間によって故意に隠されて物語られるストーリィ(つまりミステリィ小説)もある。
海辺で鉄筋を砂に突き刺している若者たちを見て、何をしているところなのか、と想像してみよう。
それが、台風で流されたコンクリートの試験体を回収しているところだ、と考える人は滅多にいない。この種のオチは、(水柿君にとっては切実で現実的なオチであるが)読者は納得しない。何故なら、まったく思いもつかないような、常識から遠くかけ離れた答では、面白くないのである。つまり、どうして気づかなかったのだろう、もう少し考えたら気づいたのに、と悔しがらせる、ぎりぎりの線が求められる。どうやら、そういうことらしい。
中略。
事実は小説よりも奇なり、とよく言う。
だが、それは当然だ。
小説では、信じてもらえない。
だから、突飛なことは書けない。
筋道の通ったことばかり小説にする。
だから、小説の方が現実よりも「奇」でなくなる。
小説においては不調和を楽しむのも一興であるが、調和をしているほうがよいと考える。意味のない不調和は単に主人公役の特別さを引き立てるだけの小道具になってしまう。彼にのされた警官たちや俗な欲望に興味のある同僚にも視点を当ててみれば面白いところはあるはずである。このあたりの葛藤の表現は押井守の攻殻機動隊イノセンスが分かりやすい。
> 刑事「あんたか。」
トグサ「昨日このオッサンが潰した人形なんだが……」
刑事「内の若いのが二人も殺られてるんだ。まさか、お持ち帰りじゃあるまいな。」
トグサ「その判断も含めて調査に来たのさ。」
刑事「鑑識は19階通路の突き当たりを右だ。案内が必要か?」
トグサ「結構。ツアーに来た訳じゃない。」
刑事「柿も青いうちは烏(カラス)も突き申さず候。美味しくなると寄って来やがる。」
トグサたちが去った後、刑事が怒りに任せてタバコ用のゴミ箱を蹴り飛ばすシーンがあり、この刑事の嫌味なふるまいに対してフォローのやり取りが挿入される。本作の場合は当事者がどちらも若く、このような大人なふるまいはできないというフォローは容易に想定できる。優秀な人や天才とはしばしば人格破綻者であると認識されがちだが、実際はそうでない部分もある。本作の警官とのやり取りなどはそういうライトノベルらしい幼さがあった。それも、個人的に続きを読まずともよいとも思った理由である。
さらに個人的な好みで言えば、グレイというキャラには多少の好感があった。私的にはああいう知的で謎めいているキャラクターは好みである。
わたしは、個人的な信条から意図的な欠損をもつ語り手を作らないようにしている。どうしてもその欠損に対してわざとらしさが出てしまう。足が欠けたことのないのに足の欠けた人のフリをしようとするには訓練が必要である。わたしの知り合いには、実際に両腕を義手にした人の描写を追求するために、両腕を使わずに生活したことがあったらしい。食事は犬食いで、ものを掴んだり服を着たりするのに口や足を使う。とにかく顎が疲れるし、唾液がよくつく。そうした訓練を経た描写には重みがあったことを、いまでも覚えている。この作品からは、そうした重みをあまり感じなかった。魔法によって便利になっていて、だから義手や義足でも普通の手足と変わらずに動かせるのだ、と反論するのは容易いが、現実に義手や義足で生活している人間がいることを踏まえると、それらの表現をファッションとして用いているのではないか、という見方をされかねない点は留意しておいてもよいと思った。
話が少し逸れたが、自分が経験したことのない欠損の真実味を出す苦労を負いたくないのならば、はじめからそういう欠損のない状態で話を始めるとよいと思う。なぜなら人は、少なからず自前の欠損を持っているから。自前の欠損を用いて、本当に欲望する事柄を欲し、望むことができたならば、他の欲望の模倣も容易くなると思った。この二つを同時に、並行してすることは困難である以上、推奨はしない。ちなみに、たびたび挿入される主人公格の話などに違和感を抱かなかった理由は、おそらくそうなのだと思う。
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以上が読みながら、あるいは読み終えた後にまとめたメモの内容です。個人的にそちらのページを見にいってみると、あまり色々と穏やかではないようで。それに関してはとくになにも思うことはありません。ただ、作品に関して言うなら、わたしは食べられると思ったものから食べていく性分であることは明言しておきます。もともと参加されたときから直感的に気になっていたこともあり、久しぶりに最近の人のものを読んだな、という気分になりました。参加してくださってありがとうございました。コメントにはこれに対する反応でも別の話でもお好きにどうぞ。ただし、これは「五水井ラグさん宛」のノートなので、当人以外のコメントに関しては基本的に無視・削除します。当人以外は「企画用」でコメントするように。以上。