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五水井ラグさん宛

このノートでは直感的に思ったことを書いています。利便性を加味すると当人の作品の応援コメント、あるいは自分で企画用と題して公開してしまうのがよいのですが、どれも私的なやり取りには適さないと判断しました。確認するのは多少不便でしょうが、ご勘弁を。以下は、わたしが読みながらメモしたことなどの移しです。

   ・・・

> 甘美

死や血などを甘美だと、甘くて美しいものだと表現したがるのは、なぜだろうか。端的には俗な表現である一方で、俗な表現になるにはある程度の合意が必要になる。たとえば文字の起源が絵にあるという話は有名である。ここでは、その起源の是非がどうこうではなく、たとえば「山の絵」から「山」が定義されていくような、集団がそう思う合理性について言及している。平易に言いかえるならば「もっともらしさ」である。そうするとわたしにとって死や血は「鉄臭くて、生臭い」ものであり、「甘くて美しい」ものではない。ただし、考え方として理解できる部分も存在する。

たとえば、ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイブ」には以下のような言い回しがある。

> 「貴君にとって、あの女(アリシア)の真の人格は、あの女の美しさの輝きが貴君の全存在中に目ざました《幻影》にほかなりません。この《影》だけを貴君は愛しておられる。この《影》のために死のうとなさる。貴君が絶対に現実的なものと認めておられるのは、この《影》だけなのです! 結局、貴君が呼びかけたり、眺めたり、あの女のうちに創造したりしておられるものは、貴君の精神が対象化された幻ですし、またあの女のうちに、複写された貴君の魂でしかないのです。そう、これが貴君の恋愛なのですな。」

この言い回しの中に登場するアリシアという女性は現実に存在するとされている。対する影とは、そのアリシアの外観を完全に模した人工美女のアダリーである。アリシアは恵まれた外観を持ちながらも低俗な物質主義に毒されている。この場合、わたしが重要だと思うのは「貴君」がそれを見抜けずにアリシアの外観を起点とした妄想に浸っていることではない。同様に死や血を甘美だと「みなした」ことそれ自体にはない。重要なのは、「なぜそう思ったか」である。

山という言葉を聞いて人々が思い浮かべる山は、それぞれのディテールは違っても、だいたいは同じである。だから、山が海になることはない。しかし、死や血のような概念になってくると天地がひっくり返るような矛盾した表現が成り立つ。それは、「美しくて醜い」のであり、「醜くて美しい」。古代現代問わずこのような矛盾した表現を両立させられる人は少ない。だから、これを読むのは作品を描いた筆者のみであると想定しているし、また、筆者が読んだとしてもどこまで理解が及ぶのかは謎である。さらに言えば、わたしは自らの言葉を理解させやすくするための要点を意図的に省いているため、通じにくい部分もあろうが、このあたりは思想の制約であるため、平にご容赦を。

ここまでをまとめると、「甘美」という表現を選んだ理由があまり見えなかった。あなたにとってなぜ死や血は「苦醜、あるいは醜苦」ものではなく、「甘くて美しい」ものなのか? 俗な表現を当てはめた、主人公の設定だからそうしたというのでも結構だが、私的にはあまり共感できる表現ではなかった。

   ・・・

次。

> 桜。向日葵。金木犀。梅。人の手で慎重に整えられた、人工的な自然。同居しないはずの四季が一様にさわさわと揺れる。

基本的に魔法を題材に選ぶときは本当に魔法である意味などあまりなく、魔法によって誇張すること、デフォルメすることを免罪してほしいという心理が見える。それらはごく当たり前に使われているので、心理として自覚されることはまずない。SNSに顔写真をアップロードするときに「顔を盛れているかどうか」、「顔の治安がいい(化粧や編集などによって全体が整えられている)かどうか」を気にするのと似ている。しかし、実際は魔法などを組み込むまでもなく、現実に上記のような光景は広がっている。

ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」には次のような文章がある。

> われわれは日常生活の全面的な組織化、均質化としての消費の中心にいる。そこでは、幸福が緊張の解消だと抽象的に定義されて、すべてが安易にそして半ば無自覚的に消費されるショッピング・センターや未来都市の規模にまで拡大されたドラッグストアは、あらゆる現実生活、あらゆる客観的な社会生活の昇華物であり、ここでは労働と金銭ばかりでなく、四季さえもが廃絶されようとしている──調和のとれた生活リズムの遠い名残りすらついに均一化されてしまったのだ。
 中略。
 象徴的な機能はすでに失われ、常春の気候のなかで「雰囲気」の永遠の組み合わせが繰り返されるのである。

わたしにとって直感的に、先の筆者の文章に違和感を覚えたのは、あえて目につくまでもなくそうだからである。現代ですでにそうであるものを、現代よりさらに未来、SF要素を「魔法」という語句に収めていると思われる作中において、「四季を廃絶すること」はとっくの昔に当たり前になっているものであると仮定できる。ちなみに現実において四季を廃絶できるかというと困難がつきまとう。エアーコンディショナーは地球温暖化を促進し、夏に冬を招来しようとすればするほど夏がより苛烈になるのだとすれば、最終的には乾季と雨季を繰り返すような「二季」になる可能性が高い。いや、正確には春と秋のような「寒くもなければ暑くもない」、「暑くもなければ寒くもない」という微妙な温度を体感する機能が、日本人から失われると仮定している。ただし、それはわたしの死後の話であろうことは想像に難くなく、どうでもいいことである。

ここまでをまとめると、ところどころは細かな設定が覗いているものの、常識に対して逆を張ったような表現が散見された。しかし、なぜ常識に対して逆を張ったような表現を用いたいのか、という点はあまり見えなかった。同居しないはずの四季は、作中で遠い昔とされているころからすでに人為的に同居可能になっており、あえてそれを作品内で指摘する意図が見えなかった。ゆえに、あえて好意的に解釈するのならば、現代の状況をエスカレートさせ、デフォルメし、魔法という法則で一本化することによって、ある種の寓意を読者に示したかったのかもしれない。この部分でもそうだが、全体的に|人為的、または人工的《アーティフィシャル》なものに対する抵抗を感じた。この部分は、わたしが個人的にしたためている作品でも、以下のように表現している。

> わたしは名前や名付けという概念に価値を感じていなかったので、彼のことはただ"彼"と捉えていた。他者との区別とはそんな|人為的、または人工的《アーティフィシャル》なものではなく、内から自ずと湧き上がってくる思想でなされるものだと信じていたせいでもあった。

おそらく通じるものがあると思われる。

   ・・・

最後。

読んでいる途中で引っかかった表現は以上である。ただ、引っかかったとは、良い意味と悪い意味が存在する。一般的には淀みなく流れることが是とされるが、それが常に良いこととは限らない。なぜなら淀みなく流れるということは、印象に残らないということだからだ。組織や集団行動において印象に残らないことは交流を円滑にする点で有用であるが、個人技である小説においては、むしろ印象に残ることのほうが重要であると思う。ただ、そうやって印象に残ることを是とすると、今度は意図的に印象に残ろうとして醜くなり、印象に残らないこと、淀みなく流れること、引っかかりのないことが推奨され始める。

わたしは、上記の二点以外は特に強い印象に残らなかった。魔法の四つの原則から筆者の狙いを分析することもできただろうが、わたしが読んだのは第一章までで、それ以上については、今のところ読みたいとは思わなかった。なので、ここからは雑感に移る。

全体的に個人の好みであるが、主人公の悲惨さを軽減しようとして行われる周囲の反応の軽さが合わなかったように思う。小説は特にそうであるが、「現実ではそうなっていた、筆者の経験としてそうだった」としても、そうしないほうがいい場合がある。

たとえば、「すべてがFになる」で有名な森博嗣氏は、「工学部・水柿助教授の日常」において以下のように語っている。

> そもそもミステリィとは何か、と水柿君は考えてしまう。それは、一部が隠されたものの筋道だ。一部が自然に隠れていることもあるし、人間によって故意に隠されて物語られるストーリィ(つまりミステリィ小説)もある。
 海辺で鉄筋を砂に突き刺している若者たちを見て、何をしているところなのか、と想像してみよう。
 それが、台風で流されたコンクリートの試験体を回収しているところだ、と考える人は滅多にいない。この種のオチは、(水柿君にとっては切実で現実的なオチであるが)読者は納得しない。何故なら、まったく思いもつかないような、常識から遠くかけ離れた答では、面白くないのである。つまり、どうして気づかなかったのだろう、もう少し考えたら気づいたのに、と悔しがらせる、ぎりぎりの線が求められる。どうやら、そういうことらしい。
 中略。
 事実は小説よりも奇なり、とよく言う。
 だが、それは当然だ。
 小説では、信じてもらえない。
 だから、突飛なことは書けない。
 筋道の通ったことばかり小説にする。
 だから、小説の方が現実よりも「奇」でなくなる。

小説においては不調和を楽しむのも一興であるが、調和をしているほうがよいと考える。意味のない不調和は単に主人公役の特別さを引き立てるだけの小道具になってしまう。彼にのされた警官たちや俗な欲望に興味のある同僚にも視点を当ててみれば面白いところはあるはずである。このあたりの葛藤の表現は押井守の攻殻機動隊イノセンスが分かりやすい。

> 刑事「あんたか。」
トグサ「昨日このオッサンが潰した人形なんだが……」
刑事「内の若いのが二人も殺られてるんだ。まさか、お持ち帰りじゃあるまいな。」
トグサ「その判断も含めて調査に来たのさ。」
刑事「鑑識は19階通路の突き当たりを右だ。案内が必要か?」
トグサ「結構。ツアーに来た訳じゃない。」
刑事「柿も青いうちは烏(カラス)も突き申さず候。美味しくなると寄って来やがる。」

トグサたちが去った後、刑事が怒りに任せてタバコ用のゴミ箱を蹴り飛ばすシーンがあり、この刑事の嫌味なふるまいに対してフォローのやり取りが挿入される。本作の場合は当事者がどちらも若く、このような大人なふるまいはできないというフォローは容易に想定できる。優秀な人や天才とはしばしば人格破綻者であると認識されがちだが、実際はそうでない部分もある。本作の警官とのやり取りなどはそういうライトノベルらしい幼さがあった。それも、個人的に続きを読まずともよいとも思った理由である。

さらに個人的な好みで言えば、グレイというキャラには多少の好感があった。私的にはああいう知的で謎めいているキャラクターは好みである。

わたしは、個人的な信条から意図的な欠損をもつ語り手を作らないようにしている。どうしてもその欠損に対してわざとらしさが出てしまう。足が欠けたことのないのに足の欠けた人のフリをしようとするには訓練が必要である。わたしの知り合いには、実際に両腕を義手にした人の描写を追求するために、両腕を使わずに生活したことがあったらしい。食事は犬食いで、ものを掴んだり服を着たりするのに口や足を使う。とにかく顎が疲れるし、唾液がよくつく。そうした訓練を経た描写には重みがあったことを、いまでも覚えている。この作品からは、そうした重みをあまり感じなかった。魔法によって便利になっていて、だから義手や義足でも普通の手足と変わらずに動かせるのだ、と反論するのは容易いが、現実に義手や義足で生活している人間がいることを踏まえると、それらの表現をファッションとして用いているのではないか、という見方をされかねない点は留意しておいてもよいと思った。

話が少し逸れたが、自分が経験したことのない欠損の真実味を出す苦労を負いたくないのならば、はじめからそういう欠損のない状態で話を始めるとよいと思う。なぜなら人は、少なからず自前の欠損を持っているから。自前の欠損を用いて、本当に欲望する事柄を欲し、望むことができたならば、他の欲望の模倣も容易くなると思った。この二つを同時に、並行してすることは困難である以上、推奨はしない。ちなみに、たびたび挿入される主人公格の話などに違和感を抱かなかった理由は、おそらくそうなのだと思う。

   ・・・

以上が読みながら、あるいは読み終えた後にまとめたメモの内容です。個人的にそちらのページを見にいってみると、あまり色々と穏やかではないようで。それに関してはとくになにも思うことはありません。ただ、作品に関して言うなら、わたしは食べられると思ったものから食べていく性分であることは明言しておきます。もともと参加されたときから直感的に気になっていたこともあり、久しぶりに最近の人のものを読んだな、という気分になりました。参加してくださってありがとうございました。コメントにはこれに対する反応でも別の話でもお好きにどうぞ。ただし、これは「五水井ラグさん宛」のノートなので、当人以外のコメントに関しては基本的に無視・削除します。当人以外は「企画用」でコメントするように。以上。

6件のコメント

  • まずは、コメントを書いていただけたことにこころから感謝を伝えたいとおもっています。それと、未熟な駄文のために予想よりずっと多くの時間を奪うことになってしまったらしいことへの謝罪。普段は返信をほとんどしないのですが、もう少し貴方と話せたらと感じてこれを書いています(表現が適切かは分からないものの人間として貴方に興味がわきました)。でも、伝えたいことはありがとうとごめんなさいなので、それ以外についての下記はお忙しかったりしたら既読スルーしていただけたら嬉しいです。

    ◆甘美
    おっしゃるとおり、死を甘美に書くというジャンル(?)が存在し、ジャンル確立までのいろんな歴史があるだろうけれども、論点はそこではないわけで、回答になりそうなところを書いていくのですが、「なぜなのか」との@HerlorckSholmesさんのコメントは、質問文ではなく技術不足へのご指摘だと私は解釈したので、小説本文から読み取れない「なぜなのか」を返信に書くことは回答ではなく言い訳になるのかなと恥ずかしいながら、確信犯で回答を書かせていただきます。

    醜い、汚い、本来であれば隠すべき醜悪な感情、と自認しながらそれでも等身大で記録を残したくて書いてきた数百万文字を、約8年かけてネット上のいろんな場所で「美しい」と言われ続け、やっと最近その視点からの意見を受け入れるにいたりました。リア友にはネット上の文章をあまり教えていないので、顔も知らない読者の皆様から私がやっと8年かけて受け入れるにいたるくらい言われた、という事実が、死を甘美に見る人たちが一定数いるということの証左になり得る、私はそういう人たちをターゲットにこの長編を書き始めました。

    個人の主義主張、出生から現在までの環境、性格やらなんやら以外にも、年齢も関係してくるようです。若い世代のほうがホラーやアクションなどを好み、年齢を重ねていくにつれ死が現実味を帯びてくるので「甘美」とは感じづらくなっていく傾向がある、と知識としては知っていますが、ほんとうのところどうなんでしょうね(極論:人による)。

    私にとって、死とはこの世で唯一の、混じりけがない光です。私が選べる選択肢のなかで唯一絶対的に正しいのが死です(端的な事実としてこのように明記しましたが、貴方も私も私の人生の詳細など関心が無いので、事実以外はご放念ください)。ただし物理的汚さについては特殊清掃に関する本を読み漁ったりビニールシートとおむつを用意したりするくらいには理解しています。人を○すことを真剣に検討していたときは、遺体をきれいさっぱり無かったことにするのは不可能なので、現行犯逮捕される予定を立てていました。とはいえ選択肢がほかに一つも無い人間にとってはそれが甘美であることはあまりにあたりまえすぎて、小説の表現として説明が不足していたのだろうとおもいます。出だしから説明ばかりする気は無くて徐々にとは考えていたけど、それにしても技術不足ですね。

    私は自分に才能も技術も無いことを正確に自覚しており、「勉強すればなけなしの技術力が身につくかもしれないのでは」とあと数年実験するつもりで執筆しています。

    ところで、貴方の「自らの言葉を理解させやすくするための要点を意図的に省」く思想の制約について、とても興味があります。差し支えなければ貴方の話を聞いてみたいです(私の勝手な感想としては、あえてまわりくどいコメントを書かれたことで私を試しているのだろう、とおもいました、善悪とか批判とかはなく端的な事実として。そしてそれは悪いことではないというのが私の意見です。見当違いかもですけれど)。

    社会人なのでお昼休みがもうすぐ終わりそうです、続きの返信は(ご迷惑じゃなさそうだったら)退勤後に書きたいとおもいます。
  • コメントありがとうございます。

    > ところで、貴方の〜

    仕事の休憩時間に入ったので、この点に関して回答します。

    まず、わたしは「明らかに有害であると区分されがちであるが、使い方によっては有益な考え」が存在すると思っています。そのため、わたし自身はより深く踏み込んでいる事柄を、あえて話さないようにすることがあります。

    この心境は、先の通り有害であり、取り扱い注意であるからして人目に触れないようにしていることもありますが、たとえば老子の格言には以下のようなものがあります。

    > 授人以魚 不如授人以漁

    これを和訳すると「飢えている人がいるときに、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか」という話になるようです。わたしは、釣り師側、感想という言葉を与える側になるとき、それが常に明瞭な答えを伴っているべきかどうかを思考します。そして、十全に相手に分からせようとすることは、「侵害」に該当すると考えます。相手がどう思ったか、どう解釈したかは相手の自由だからです。答えを教えられて、そのときはなるほど、と分かったようでいても、答案用紙を見て問題を解くようなふるまいに価値を見出せない。また、創作の場合は勉強のような単純明快な「問い-答え」の関係ではなく、相手の起源(ルーツ)に関わるような繊細微妙なものであることが多いです。ですから、わたしはそれをわたしの考えで圧迫しないように、意図的に要点を抜いています。相手の言葉をかわし、相手が芯を保持している、信念を持っていて、ちょっとやそっとのことでは揺るがないような状態であると分かったならば、さらに一歩進んだ解釈を開示しますが、現状ではお互いに初対面の状態に等しい。さらに言えばわたしはわたし自身の価値を世間から隠匿することを好ましいと思うので、相手からすれば不審極まりないわけです。ですから、言い回しから相手を試す意図が混入してしまうことはハッキリと自覚したうえで、要点を省いてお話ししているということを明言しました。

    また、世の中には便益の対義として「不便益」という言葉があります。これは、最近研究されている概念だそうで、わたし自身はそれに厳密に沿った考えを持っているわけではないのですが、近しい考えを持っています。最初から一から十までやり方が開示されていて、誰でもある程度釣れる方法があったとして、それによって釣り師が自然の許容量以上に発生したならば乱獲が生じ、生態系が崩れます。このあたりは生成AIの問題点をご存知ならば、ある程度は通じるかと思います。山を登るのにロープウェイを使って登ればあっという間に山頂につくわけですが、山道をてくてくと歩いていくことにもそれはそれで味わいがあります。世の中の多くの人は便利で楽なロープウェイを好ましいと思い、分かりにくい言い回しを含ませるわたしを悪意ある人とみなすでしょう。しかし、創作において、批評において楽をするというのは、はたして当人にとってよいことなのでしょうか。

    > 性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。
    小津安二郎 より

    思想の制約に関しては、むろん、これだけではないものの、お伝えできる範囲で回答させていただきました。他のことに関しては、続きの返信が出揃ってから、ちゃんと読んで返そうと思っています。以上です。
  • 返信ありがとうございます。思想の話面白かったです。概ね「試されている」という予想が外れていなかったこと、あとは自分も人から話を聞くとき相手の出方を待ったのちに無数のルートから(相手に合わせたルート候補を)ある程度しぼる方法をよくとること(私がよくやるのは試すより聞きだすに近いですが)、誰でも簡単にできるロープウェイより山道てくてく派だというのが私も同じで共感したこと、いろいろ楽しかったです。今帰宅したところなので返信の続きを書き始めます。

    お忙しいところ会話につきあっていただけて嬉しいです。先ほどまで返信を書いていいのか判らない状態でしたが、安心して書けそうです。
  • ◆思想の追記。@HerlorckSholmesさんの「便利すぎず」「有毒すぎず」「相手の意思思想の強度を確かめつつ」を動機にしながらあえて解りにくい表現をしている、というのが、私も同じ危機感をつねに持っていて、そのうえで線を引く場所が違うので、とても面白かったです。@HerlorckSholmesさんは文章をぼやかすことで相手の受け取りかたそのものにゆだねている、私の場合は「私の個人的な意見ははっきりとAだとおもうけど、この世に絶対的な正解など存在しないので、貴方は貴方の正解を信じ、私の言ったことは票が一票入ったとおもってください」的なニュアンスで話し、私の言葉の何パーセントを受け入れるかは相手にゆだねる、それは他者と自分との境界線を何処に引くのかの違いなのかもしれない、@HerlorckSholmesさんのような対処の仕方も存在するのかと興味深かったです。私なら一生使わない対処法だけれど(自分のやりかたが気に入っているから)、その対処をされる側としての体験も面白いです。

    ◆では、続き。甘美の追記です。自分の死と他者の死は別物ですが、自分の死を甘美と感じているうちは他者の死も同様に甘美扱いになりがちで、その心理状況を醜く等身大で描きだしたくて、主人公をあのように書いてみました。自○とはつまり他者全員世界まるごとを私のなかで死亡させるのと同義です、「○にたい」は「あんたなんか要らない」とイコールです(もちろんそうじゃないタイプの志願者もたくさんいて、あくまで一部分、一例の話です)、そういうタイミングでペットを亡くしたことがありましたが、かなしみやさみしさよりも羨望が先に来て「ペットのこの子に失礼な感情」「醜い感情」と自分でもおもいました。甘美って単語を用いているくせに、私はこの醜さをいずれできるだけグロテスクなまま表現できるようになりたいと考えています(技術が足りせんけど)。違うタイプの志願者についてもそのうち書くかもしれませんが、今回はこのタイプにしぼっているため、ここまでの言及となります。

    ◆四季
    「しかし、実際は魔法などを組み込むまでもなく、現実に上記のような光景は広がっている」というのが抽象的な意味なのか具体的な意味なのかによって私の回答は変わります、それにそもそもその前の時点の話もします。

    Aという方法で実現可能だと広く知られていることが、もしもっと便利にBという方法でできると発見されたら、得られる結果が同じでもAはBに取って代わられる可能性がある、と私はおもっています。またはAとBの共存。よって、魔法を使わなくても現実でできることだよというご意見には、でも魔法のほうが便利だったら取って代わられるかもしれないと想像してみても不正解ではないですよね、と回答します。是非を問うているのではありません、あくまで私の個人的な意見・立場であり、そこは揺るぎません。とはいえ、@HerlorckSholmesさんが入れたこの一票は、小説の技術力を判断する立場のかたがたがよく論点として持ってくる項目であり、平たく言ってしまえば「なんで魔法がある世界を舞台にしたのかについて、五水井の小説は技術不足で、説得力が足りませんでした」とご指摘を受けたという意味で受け取りました。

    「しかし、実際は魔法などを組み込むまでもなく、現実に上記のような光景は広がっている」というのが抽象的(コンビニや薬局、エアコン、ビニールハウスなどなどの擬似的な四季喪失)の意味であれば、私はそのようなあらゆる事象の画一化をサブテーマに掲げて『林檎』を書いていて、違和感を持ってほしくてわざとくっきり相反するものとしてコントラスト強めにやりましたので、はい、わざとです。本来はaだよね、なのに時代とともにbになったよね、真逆だよね、みたいなのを強調したかったのです。でも「わざとらしすぎて稚拙ですよ」というご指摘だったのなら「勉強して出直します」が私の返事になります。→しかしコンビニを見て「四季が抽象的に廃絶されている」と認識すること=常識、と考える人間はたぶんマイノリティーです。常識と断言するのは過言かとおもいます。

    「しかし、実際は魔法などを組み込むまでもなく、現実に上記のような光景は広がっている」というのが具体的に「○県○市の○○公園にほんとうに桜と向日葵と金木犀と梅が同時に咲いてるじゃん、常識でしょ?」という意味なのであれば、私には常識が無かったということですね。結構あるんです、日本人なら誰でも知ってるでしょみたいな知識(固有名詞が関係するものが多い。マナーとかの分野ではない)が私はかなり人とズレていて、誰でも知っていることを私だけ平然と知らないというのがよくあります、小説を書きたい人間にとって致命傷だと自分でおもっています。これが相当ひどくて見るに耐えないというご指摘なのであれば、自分の才能の無さを客観的にも証明できたことになりますから、私としてはよい結果です。朗報扱いです。

    ◆人為的・人工的なものに対する抵抗
    これはめちゃめちゃ共感しました。先ほどのロープウェイや生成AIの話にも通じますね。名づけについても同じことしばらくやっていた時期がありました(書いている小説に頑なに氏名を出さないようにすることで本質を描ければ、と試すだけ試し、結局やめました)。私は固有名詞とか数値とか記号とかで物を把握する能力が低いです、たとえば自分の恋人について説明するとき一般的には写真を見せたり年齢や学歴や勤務先、出身地、性格などの分かりやすい概要説明から入ることが多いのに対して、私は「普段、彼とは自己肯定感の低さからくる他者とのズレ、誤解されやすい項目、弊害となりやすい点などについて論じることがよくあり、お互いにその部分について相手を理解・許容し、共感できる部分もあることから、ほかのどんな話題でも……」みたいなピンポイントの説明をしてしまう(私はこれをピンポイントではなくこれこそ彼との関係の本質とおもうのですけど)、こういう着眼点のズレが私には生活に支障をきたすくらいたくさんあって、会社で「そんなことも知らないの?」と言われてしまう、なにを知っていてどれを重視するかは人によって違うんじゃないか、違う分野の知識をいっぱい持っていても会社ではなに一つ知らない人と認識されている、もう私はそういう脳味噌で、子どものときから足掻いてきたけどどうにもならず、その延長線上に人工物への抵抗があります。「1の次は2をやって、3を経過して4までやれば誰でも5になります」みたいのが好きじゃないです。その型にハマることをみんなが正しいと(無意識的に)感じながらどんどん画一化されていく現代社会が、不気味で仕方ないんです。私は水彩でイラストを描きますが、デジタルが流行り始めた頃にいろんなアナログ絵師がこぞってデジタルに移行して、似たりよったりの絵を描くようになったことに愕然としたりとか。今はAIイラストですね、愕然。まあ、不気味だなとはおもうものの、正解不正解は人によって違うし、絶対的に正しい答えなんて無くて、「私はこうおもっています、ここに一票入れてみますね」的なニュアンスで「人工物しいては画一化に対して抵抗すること」をサブテーマに掲げ、小説を書いています。数年前に書いた長編にこういう文章がありました。「……教官のおっしゃっていること、なんとなく解ります。わたしは紙の辞書を引くようなものだと感じました。検索するとすぐ結果を見ることができて便利だけれど調べた単語しか分からない。紙の辞書を引くと周囲のいろんな単語に寄り道しやすい……そういう寄り道が人生の豊かさなのかもしれません」まさにこれです。

    ◆引っかかった表現
    わざとらしすぎて稚拙さが目立った、もしくはほどよく違和感を誘発することができていた、どちらなのかによって意味がまったく異なりますね。褒めるのであればぼかさず書かれるでしょうから稚拙さの指摘(の一票)として受けとめさせていただきます。

    ◆上記の二点以外は特に強い印象に残らなかった
    その二点がメインテーマとサブテーマです。ほかはわりとどうでもいいです。

    ◆主人公の悲惨さを軽減しようとして行われる周囲の反応の軽さ
    反応の軽さがなにを指しているのか分かりませんが、その後ろの部分はよく分かります。劇的に不幸が発色しすぎてかえって洗練さに欠ける、派手なものは書きやすく、目立っているため想像に難くなく、曖昧な線しか書けなくても他人に伝わるが、チープな紛いものに見えてしまう、といった意味あい、私自身それを知っていて(上記の文章「劇的……」は数年前に自分が書いた小説から引っ張ってきました)一時期控えめに書いていたのですが、今はおもうところがあって実験中です。プロを目指すのをやめたので、実験してもいいかなとおもって、あまりうまくはいってなさそうです。@HerlorckSholmesさんが入れたこの一票は、小説の技術力を判断する立場のかたがたがよく論点として持ってくる項目であり、まあそうだよなあとおもいました。欠損についても同じことをおっしゃっていますね。ちなみに義手義足の真実味が薄いのはわざとです(わざとには見えず能力が低いように見えると指摘されているので、言い訳みたいになってしまいました……)。一応障がい者スポーツの講習会やスポーツの練習などに複数回参加して直接そういう人たちと触れあったり本やネットで調べたりもして書いていますが、「身体的な怪我を魔法であっさり治したり補ったりできる」設定を強く書く必要があってあえてやっていたつもりでした。加えて、入口(表面)を重くしすぎるとライトノベルとしてはうまくいかないんじゃないかなという判断もあります(これ、作者本人はライトノベルのつもりで書いています)。

    ◆表現をファッションとして用いているのではないか、という見方をされかねない点
    そうじゃない小説(その他作品、表現に関するもの、人間そのもの)はこの世に一つも存在しないというのが私の持論ですが、にしても程度があるので、やりすぎていて稚拙ですよというご指摘は素直に受けとめます。自○について話題になるとき「ファッション乙(爆)」(要約)と自○志願の元凶たちに言われてきたことで私は表現できない感情を持っていて、ファッションという言葉は控えめに言ってとても大嫌いです、そういう小説を書かないことを第一に気をつけてきたつもりだったけどやっぱり技術が無いですね。いただいたコメントで一番こたえました。自分一人でよく考えることにします。

    ◆警察とのやり取りが幼い
    「小説に同じレベルの同じ分野のキャラしか出てこない」みたいなのを避けたくてあえて頭がよさそうな人とか幼そうな人とか恵まれた人とかいろんな異邦人並みのキャラを出そうとしていまして、その失敗例です。修行頑張ります。私は自分の脳になんらかの障害があるだろうと信じているくらい頭が悪いです(単なる自己評価の事実であり、その事実以外はご放念ください)、いろんなレベルのキャラを書こうとすることで頭が悪くても人間を理解できるようになるかもしれない、ともがいてみたけど、うまくはいかないです。

    ◆総合的に、@HerlorckSholmesさんからは未熟という意味でのご指摘をたくさんいただいたのだと感じています。「思想」で@HerlorckSholmesさんの言葉をどう受け取るかは私にゆだねられていることが分かりましたので、私はそう解釈しました、という念のための報告です。予想ではもっと軽い感じで1、2ページちら見して軽いコメントをくださるだけだろうとおもっていました。時間をたくさん使わせてしまってごめんなさい。でも私は得るものがおおきかったです。というのも、私は@HerlorckSholmesさんとは真逆で、「私は誰の目にもうつらない透明人間である」「だから私がどれほど有毒な思想を叫び散らしても(他者に対する私からの攻撃として解釈されなければ)誰にも影響しない」「生きても消えても私本人しか気がつかない」大前提を極端に持っていて、だから私は会話のときできるだけ平易な単語だけを用いてはっきり説明するようにしています(どれほど分かりやすく説明しても私が透明だから物理的に相手に聞こえているわけがないとおもっています)、それを@HerlorckSholmesさんにこれほど詳細にコメントをいただいたことで、刹那的に救われました。ありがとうございました。

    にしても質問なんですが、@HerlorckSholmesさんがこの企画を立てた動機はなんですか?
  • > 甘美についての返信に向けて

    まず、「なぜなのか」に関して技術不足の指摘の意味合いはありません。むろん、読んでいるうちに「なぜなのか」が生じ、それを作中で納得させられないことを作者の力量が不足していることとみなすことはできます。だから、「なぜなのか」にそういう意図が含有されること自体は否定しません。ただ、他者に対してよっぽどのことがない限りわたしはそれが技術不足であるとは感じません。そういうものはだいたい嗜好するものが異なるがゆえの分かり合えないところであると思っているからです。

    わたしが常に興味を持つのは、作者自身がそれにどう理由をつけるか、という点です。山を指差して「あれは海である」と言ってもいいし、海を指差して「あれは山である」と言ってもいい。しかし、納得がなければ小説としては筋が通らない。

    ここに死という概念があって、それをどう思ったかという問いがあると仮定します。すると、大雑把に見てわたしのようにそれを血生臭いものであると考える一方で甘く美しいものであるとする考えがある。すると今度は「死が甘美とはなんぞや」という問いが生まれます。逆に「死が醜くて血生臭いものとはなんぞや」と問われたら、わたしは科学的な角度からそれを論じることができますし、あるいは九相図(屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画)の話をして、死とはそういうものであると解釈していると述べます。

    これは、今回持ってこられた作品に一貫している問題でしょうが、考えを対立させ、理解させる状況が乏しいように思います。あなたの返信から察するに「それが甘美であることはあまりにあたりまえすぎて」そうなっているということですが、そうであると同時にそうではないのです。重要なのは相反する考えを持つ人がいないこと、凸凹コンビや性格が反対の者の組み合わせが有用なのは、お互いの思想に対してお互いがほとんどの場合で逆を張るため、自然と会話や行動によってそれを理解させる必要が生じる点にあります。ちなみにわたしは相反する考えを持つ人を別に用意するのが面倒だったので、自分の頭の中で矛盾した意見を同居させられるようにしました。他者との相互理解を拒絶する場合は、そのような工夫も想定されます。仮に、反対の考えを提示せずに話を進めた場合、それはどうしても直感的に「〇〇であることはあまりにも当たり前である」と認識してくれる人だけを対象にした話であるということを意味します。つまるところ作風や設定、物語で人を選びながら、さらにあなたはあなたの常識があまりにも当たり前であると疑っていないがゆえに、さらに読み手を選別するようになっていると解釈することができます。

    「甘美って単語を用いているくせに、私はこの醜さをいずれできるだけグロテスクなまま表現できるようになりたいと考えています」と書かれている部分からも読み取ることができますが、「ある事」について突き詰めていくとなぜか逆にたどり着くことがあります。これは有名な意地悪問題ですが、日本全土において上り坂と下り坂のどちらが多いか? というものがあります。答えは、坂道をどの視点から見るかによって変わるだけであり、上り坂も下り坂も同数です。坂道とは常に上り坂であると同時に下り坂でもあるからです。同様に「死は血生臭くて醜いものであると同時に甘くて美しいものである」、あるいは「死は甘くて美しいものであると同時に血生臭くて醜いもの」でもあるのです。ただ、たいていの人と話しているとき、そのどちらかに重みつけしているかを表明しなければ、人はその意見を受け止めることができません。

    禅には四句という考えがあります。その内訳は「有である」、「無である」、「有であると同時に無である」、「有でも無でもない」とされています。禅の極みの場合、「四句を離れ、百非を絶して」いくことが求められますが、わたしはまだその領域に達していないため、いったんは四句を用いています。西洋の場合は四句の後ろ二つがなく、その代わりに「排中律」が存在します。おそらく、あなたの発想を狭め、その両手を縛るのは技術不足などではなく、むしろわたし以上に常識に準じているからだと考えます。

    世の中の大多数の人が述べる「技術不足」とは、たいてい「その人が身を置く常識に反しないよう、うまく我を通す能力が足りない」、つまるところ世故に長けていないだけだと思っています。これは考えのレベルでも同様です。西洋的な排中律、「有であると同時に無であるとか「有でも無でもない」なんてものはなく、突き詰めていけばそれは「有か無か」だ、という考えのほうが生きやすい人もいれば、当然そうではない人もいる。これは単にそういう話であって、後述するライトノベルに関しても同様だと思っています。むしろ、それらしくあることがあなたの表現の一貫性を阻害し、質を高めるのを邪魔しているのではないか? と。

       ・・・

    > 四季について

    二元論的な思考があなたの価値判断を占拠しているのではないか、という問いはすでに前述した通りですが、ここでもあなたから「不正解」の文言が出たことによって、その疑惑はさらに強くなりました。

    それはさておき、四季について、ですが概ねそちらが言いたいことは間違いではないと思います。ただ、重要なのは「魔法のほうが便利だったら取って代わられるかもしれない」という認識について、「いや、それは」という話を述べているということです。要するにあなたの作品において魔法は単に科学の言い換えに過ぎない状態です。世間はある技術を魔法のようだと評することはあっても、それを魔法だとすることはありません。また、物書きにおいては、進みすぎた科学は魔法と区別がつかないという俗説に従って、自分では詳しく設定することのできない超技術をひとまず「魔法」と呼ばせて情感に訴えることで、その設定の詳細をぼやかす免罪符にしようとする風潮があると考えます。ただ、見た目を変える技術を変化(へんげ)で済ませたり、瞬間移動に対する制約に関するところなど近未来的な像と魔法の語が適していると感じられる部分もあります。しかし、一貫して筆者が魔法と科学にたいして明確な考えを持っていないように見えたことは明言しておきます。あなたはこの点の作り込みに対しては、徒歩登山ではなくロープウェイを利用したと思わざるを得ません。

    > しかしコンビニを見て「四季が抽象的に廃絶されている」と認識すること=常識、と考える人間はたぶんマイノリティーです。

    次に、この点に関してですが、言っていることは一理ありますが、わたしが述べているのは前述の通り「魔法によって誇張すること、デフォルメすることを免罪してほしいという心理が見える」という点についてです。また、あなたは、

    > 桜。向日葵。金木犀。梅。人の手で慎重に整えられた、人工的な自然。同居しないはずの四季が一様にさわさわと揺れる。

    と記載していますが、同居しないはずの四季という表現に注目していただきたい。直感的に同居しないはずと書かれているのは、それら本来がそれぞれの季節の草花であり、人の手のよってそれらが人工的にかき集められ、同居させられているということを示しているわけですが、それが当たり前になった世界、常識になっている世界においては、「同居しないはず」とは書かないように思います。それらは人の手によって芸術的な調和を成し、一目で四季折々の草花が楽しめるように設られているとプラスにとらえるところを違和感を持っています。

    わたしがジャン・ボードリヤールを引用した狙いは、①そもそも魔法に頼るまでもなくそのような光景は科学の時代からすでに日常的であった以上、それを魔法社会であえて言及する意味は乏しい。ただし、筆者が行きすぎた科学に照準を当てて「魔法」という語句を当てこみ、魔法という言葉を用いて、なぜそうなっているのかの説明を省略することによって、これは本来同居しないはずなのだ、というメッセージを発することは構わない。しかしそうなるとより魔法というよりは単に科学を魔法と言い換えただけであって、筆者は行きすぎた科学を科学として描く、SFを真正面から書く能力の不足を自覚しているが故の逃げではないか? という問いが現れます。

    また、②常識を保有している人は、前述の通りその状況に違和を抱かないか、たいていはそれをよいものだととらえるようにできています。「常識に対して逆を張ったような表現」とは、魔法(行きすぎた科学)社会において「同居しないはず」などという言葉は、その社会本来の常識に当てはめれば、異端であると仮定できます。なぜなら主人公はそのように描かれていますし、それが常識でなければ、つまるところその社会で肯定的に受け入れられている価値観でなければ、そもそもそのような設備は作られないだろうと想像できるからです。だから、「死を甘美だと思う」ことと「同居しないはずの四季」は同じ「常識に対して逆を張ったような表現」ではありますが、常識の濃淡が違います。前者はたいていの社会で了解されている普遍的な常識に関することで、後者はその世界観での常識に関することであり、「大なり小なりあなたは常識に対して逆を張ったような見解を表明したがっているのは分かるけれど、それがなぜか?」までは分からなかったと、わたしは述べています。だからこそわたしはその先で「あえて好意的に解釈するのならば、現代の状況をエスカレートさせ、デフォルメし、魔法という法則で一本化することによって、ある種の寓意を読者に示したかったのかもしれない。この部分でもそうだが、全体的に|人為的、または人工的《アーティフィシャル》なものに対する抵抗を感じた」と続けているわけです。

    ここまでの話を整理すると、常識には①盗みは悪であるような、人種の垣根を超えて了解されている普遍的な常識と②科学主義のようなある思想が先鋭化することによって当たり前になり、誰も疑問を抱かなくなった意味での常識があることが分かるかと思います。ただ②に関しては、科学の部分を魔法に挿げ替える意味が薄くて、魔法という語から想定される西洋的なイメージと異なり、SFチックに展開されていることへのチグハグさへの指摘も混ざっているので、切り分けが難しかったのだろうと思います。

    > 人為的・人工的なものに対する抵抗

    この項目では、あなたの考えが明確に打ち出されていて興味深かったです。わたしは、そういう考えが作品でもより明確に打ち出されることを望みます。そういう意味で「ライトノベルらしさ」にこだわることが逆に「あなたの表現の一貫性を阻害し、質を高めるのを邪魔しているのではないか?」と考えています。

    > 稚拙さ

    両天秤を釣り合った状態にすることはほぼ不可能であるように、「肯定か否定か」が明確になっていなければならないというのは、現代の宿痾であると感じます。わたしにとっては「わざとらしすぎて稚拙さが目立ったと同時に、ほどよく違和感を誘発することができていた」、あるいは「ほどよく違和感を誘発することができていたと同時に、わざとらしすぎて稚拙さが目立った」という意味で発しています。

    その後の義手の話、表現をファッション〜、警官とのやり取りなども「ライトノベルらしさ」に縛られているが故の判断だと思っていましたので、とくに違和感はありませんでした。先にも述べた通り、わたしから見て現代人のほとんどは「その人が身を置く常識に反しないよう、うまく我を通す能力が足りない」から悩んでいるように見えます。ですが、別にその常識に隷属したり敵対したりして、その常識の周囲を公転する衛星になる必要はないと思っています。世間の常識は絶対的な事実ではないからです。むしろ自分から好ましいと思う常識を選択していく、創造していく気概こそが創作者には求められているのではないかと思い、わたしは勉強を続けています。

    > 総合的

    わたしも過去には自分の影響力を低く見積もっていましたが、最近はどうやらそうではなさそうだと認識を切り替えています。ただ、ほとんどの人にとっては自分の影響力など低いものです。だから、できる限りはっきりと話したり、耳触りのいいフレーズを用いたりして、自分が存在していることを表明したいのだろうと思うことがあります。このあたりはまた個別に考えがありますが、だいぶ書いて疲れたのでこの辺で割愛します。

       ・・・

    > 最後の問いについて

    いま現在、わたしは友人に頼まれて「わたしが面白い・興味深いと思えるような人」を探しています。この企画は、その活動の枝の一つです。
  • ご返信ありがとうございます。まず、具体的な目的があって企画を作られたとのことで、私がこれ以上@HerlorckSholmesさんとの会話を望むことは、@HerlorckSholmesさんのお邪魔をすることになるだろうと感じました(それを確認するための質問でもありましたし、@HerlorckSholmesさんの原動力のようなものを知りたかったのもあります)。@HerlorckSholmesさんの言葉は私に新しい視点を与えてくださるもので、それがとても楽しい、聞いてみたいこと話してみたいことがやまのようにあるのですが、邪魔をしてしまうのは本意ではないので、ご返信いただくのは無理をしないでいただき、本来の目的に戻っていただくのがよいかもしれない、です。私はいただいたコメントに返信をいたしますが、@HerlorckSholmesさんはここまでとおもっていただいて大丈夫ですから、無理をしないでください。

    ほんとうにありがとうございました。久しぶりにこんなにわくわくしました。これからもご活躍を祈っております!(なにか恩返しできる機会がもし今後あったら声をかけてくださいね) 企画、いい人が見つかるように祈っています☺️

           ◆

    でも懲りずに返信はさせていただきます(「いただいている」のは私ですから)。控えめに、短く終わらせますのでご容赦ください。

    ◆二元論
    先日の返信はかなり極端に二元論的な言いかたをしました。申し訳ございません。「思想」で@HerlorckSholmesさんのコメントは受け手(私)に受け取りかたがゆだねられている、と分かったのですが、私はそれでもどうしても@HerlorckSholmesさんの考えを知りたかったので、「4:6ですか?」と訊くより「0:10ですか?」のほうが答えてもらいやすいだろうと判断しました(じゃないと「4でも6でも配分の解釈は五水井さんに任せます」と言われるだろうなと。それは0じゃないとは言っていないわけですから。実際に「> 稚拙さ」のところでそれをおっしゃっていて、客観性に対して冷静で誠実なかただと感じました)。私は最初から「めちゃめちゃこきおろされた」だなんておもっていなかったです(ベタ褒めされたとももちろんおもっていませんよ)。あと、私は自己欺瞞が甚だしい人間で、「他者には二元論的な判断をあてはめないことが比較的多いのに、自分自身についてはとにかくなにかしら理由をつけてこきおろす」という癖があります。@HerlorckSholmesさんの「思想」でゆだねられたコメントを、私がどう受け取るのが客観的に見て多数派なのか、発言者の意図をお聞きしたかったのです。私は自分の認知のズレを自覚していて、自分を信用しすぎないようにしています。

    ◆考えを対立させ、理解させる
    それそれそれだー! となりました。というのも、一応は気にして対立させるようにしているのですが、「甘美」に関しては対立させるまでもないという感覚でした(「感覚」としたのは思考すらしていなかったということです。思考すべき項目として認知しておりませんでした)。そういうところなのです、私の着眼点のズレは。「この項目・分野は注意すること」という暗記リストのようなものを脳内に作り、ことあるごとに更新しています。今それを更新しました。ありがとうございます。

    ◆「ある事」について突き詰めていくとなぜか逆にたどり着く
    なぜか、ではないと私は個人的におもいます。物事には裏表がある。両面(「両面」では足りないですね。∞面、でしょうか)から対象物を見たとき、一つのものは異なるかたちをしている。絶対的な正解など無い、人による(人だけじゃないです、その日に食べたものや受け取った一通のメール、ホルモンバランス、季節、いろんなことで1秒後に真逆の思考を持つことは珍しくない)。で、突き詰めていくということは「その対象物に詳しくなり、両面を知ること」です。私はそのルートと変遷をたくさん表現したくて小説を書いています。

    『林檎』に殺人とか義手とか派手な要素を使っているのはその表現の実験をするためです。私の人生には個人的に絶対許せない加害者たちがいますが、彼らと絶縁した今も彼らを深く愛しています。警察であっさり手続きができるくらい世間体的には「明らかな」加害だったのに、私は彼らの苦労も愛も痛みもこの世で一番、私が理解しています。かわいそうでかなしくて愛おしくて気が狂いそうなくらいに。どうして彼らを幸せにしてあげられなかったんだろうと毎日考えます。その複雑さは、友だちとかカウンセラーとかにいくら話しても伝わらなくて(その手のプロであるカウンセラーにさえ伝わらなくて)、『林檎』は「ちょっと頑張れば許してあげられるよね」的な書きかたをしたくなかった。0:10だとほとんどの人が言う状況で、「それでも0じゃないんだ」と叫ぶための小説です。ときには「やっぱ0:10じゃねえか!」と泣きわめかないとこころを守れない。人間って可愛い生きものですね。執筆頑張ります。

    ◆四季
    根本的に論点が違っていたことがよく解りました、そしてそこは私も大変悩みながら試行錯誤している部分で、興味深くコメントを拝読しました。

    私の書く魔法がSF寄り(要約)というのは自覚がありませんでした。書きたい抽象的要素があり、それの具体例として暗喩するために魔法を用いているのは、SFでもなんでも道具なんてどれでもよくて、そのために化学を勉強することは別に構わないのですが(書くためならなんでも勉強する姿勢です)、SF設定に凝ること(SF読者を納得させられるだけの説明文を、文量という観点から見て、書かなければならない)に重点を置いていないため、「魔法だったら説明文が少なくて済むかな(もっと重視したいことに文量をさけるかな)」と選びました。作者本人としても得心はいっていません……。SFのほうが説明文少なく済むでしょうか? あまり難解な単語も使いたくないんです。暗喩を使わず現代ドラマにしてもいいけど、設定まであまり生々しくするのはちょっと違う感じがして、キャラクターの心理描写をできるだけグロテスクに描き出したいから、ほかの要素はデフォルメしておきたい。うーん、もう少し悩んでみます(たぶん書く限りずっと悩む項目です)。

    補足として、公園を「同居しないはずの四季」と書いたことは、説明が足りていなかったことが分かりました。どこかで軽くは説明していたつもりでしたが、魔法にもコストがたくさんかかる設定なんです(お金ではなく魔力とか体力とかですが、結局公園維持のために何十人もそれに従事させようとしたら人件費やらなんやらかかるでしょう)。「四季が同居する公園」にどれほどの価値があるか? 2024年現在でもコストをかければそういう公園は技術によって作れるとおもいます。でも四季が同居しているだけの公園は入場料をたくさん払ってまで訪れるような珍しさは無い。電気代、人件費、その他もろもろ回収できないでしょう、利益なぞ到底期待できない。だから2024年現在、そういう公園を作ってビジネスをやろうとする企業は無い(あったらすみません)。小説内でも同じくらいの感覚で、あの公園は学生が勉強のために代々受け継いでやっているだけで、ほかの場所にはそういう公園が無い、という設定でした。普通に説明が足りませんでした(私が設定を軽視している証左です)。

    ◆ラノベらしさ
    10〜30代に広く受け入れられるのはライトノベルかなぁとなんとなく選んでいるのですが、「質を高めるのを邪魔しているのではないか?」という発想はありませんでした。おもいきって文芸のほうにかじをきってみるのもひとつかもしれませんね。

           ◆

    あまり長くなるとご負担になるかもしれないので、このあたりで終わりにします。楽しい時間でした。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。どうかお元気で。貴方が少しでも楽しく(せめて平穏に)過ごされますように。
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