感想メモ
> だが人類という生物は、〝生まれついた〟、あるいは〝住みついた〟地域という『枠』で個人を〝色分け(差別)〟するという性分(さが)から、やはり逃れられないようである。
国籍は『出生州』(あるいは『帰化州』)へ、旅券は『身分証(ID)』へとそれぞれ姿を変え、国境に代わって州境が〝越境者管理〟の対象となった。各種の査証(ビザ)といった手続きも管理主体が一元化されて軽便なものとなっているとはいえ、本質的にほぼそのままの形で残っている。
全体的に装飾過多な印象は否めないものの、ルビやカッコ、ダブルクォーテーションなど使えるものを駆使して読者に深く読ませるように強く誘導している点は、なかなか興味深い。その後の「あんまり〝可愛げのない〟表情(かお)を上司に向けるなよ。損だぞ」も露骨すぎるといえば露骨すぎるのだけれど、その露骨さが中途半端ではなく、最初から少なくとも第六話まで一貫していたので、この濃さに合わない人は最初から客ではないというのが明確に文体から現れている点は、個人的に好印象。
これはジェット機の作用に似たものがあり、なまじ中途半端な加速だと空気抵抗があらぶって機体に負荷がかかり、操縦が安定しなくなるが、一定以上の速度だと空気の分子が動くよりも先に機体が前進するため、一定以上の速度から見た場合、空気は静止していると仮定することができるのに似ている。このときジェット機を成り立たせるのは"一定以上の速度に達するための推進力"と"静止した空気の分子にへし潰されないようにするだけの強度"があれば飛ぶのと同じように、一定以上の個性をこの濃度で維持できるのは、一種の強みであると思った。
ただ、大胆で濃くある一方で、登場人物が多く、アニメ的な印象を受ける。攻殻機動隊(イノセンスではない)を見ているときのような印象を抱かせる点は私的に非常によかったものの、繊細さはあまりない。ただし、繊細さがないおかげで第九話のような"大捕り物"をスピーディーに描けているという強みもあり、一長一短と考える。目をひくフレーズが乏しく思うのも、おそらくはその大胆さからきており、実際の当人の性別はさておき、男料理のようながっつり、こってりという印象を抱いた。
様々な装飾によって強引に深読み"させようとする"やり方は、実際にそこに深みがあろうがなかろうが一定の効果を見込めるため、やや賛否ありか。あとはルビを振る字よりもルビのほうが字数が多いときは、文字がぎゅうぎゅうになって非常に読みにくくなるので、基本的に字数が多いほうを下地にして、短いほうをルビに回すのがよいと思う。
例
> サンデルスは助手席に座った自分の対番(後輩相方)にぼそりと言った。
第六話より
ただし、漢字にカタカナルビ振り(たとえば旅券にパスポートと振るなど)に関しては、そのままでよいと思う。漢字、漢字の組み合わせの場合は上記の例の通り可読性に関わるため。
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そのまま第十話まで読み進めましたが、安定感があり、非常に高い技量がうかがえました。装飾過多も作風と言ってしまえば通る具合ですし、これと言って悪い点は見当たらなかったです。ただ、読んでいていくつかの危惧はありました。
まず、言い回しの弱さ。装飾によって深読みさせようとする仕組みが作風になってしまっているので、頭の中で装飾を取っ払ってみたときの言い回しの弱さが気になりました。言いかえるのなら詩的な要素が薄そうであるということです。念のためあなたのほかの作品にも軽く目を通してみましたが、全体的に詩的な要素はあまり濃くなさそうでした。詩的さとは寓話であり、寓話には寓意が宿り、寓意には筆者の考えが宿ります。これは哲学と言いかえることもできます。現実的な問題、いま目の前の生活や社会問題は、たしかに大切です。しかし、それらはどうしても個人を捨象し、個人をアイコンとして見るように誘導してしまいます。
次に、ひとりのキャラに注目させようというのがないせいで、文章媒体の強みを消してしまっていること。海外の刑事ドラマのような、ドラマ自体を小説に落とし込もうという試みはうまくいっています。しかし、その反面、ひとりのキャラにじっくりと注目することがなく、ほとんどが「場」を軸に回ってしまっている印象を受けました。群像劇の要素を含んでいるときは、それぞれが舞台の登場人物にすぎない以上、運命の大きな流れには逆らえず、という現実的な見方ができますが、かえってそれが各々の人物像の深掘りをせき止めている印象です。これは憶測ですが、過度に一点を深掘りするよりも、全体を均等に掘り進めていくような、そんな感触がありました。ただ、これは各々の名前、キャラクターの印象も均等であり、これという思い入れが生じにくいことを示しています。全体的に組織人のような淡々とした印象があり、人間味が薄い。この指摘に対して「意図的です」という反論を想定しておきますが、この反論に対する分岐は二つあります。一つ目は、ある考えを熟成させきった結果として、それを小分けにして出せるだけの能力があるからそうなっている場合。二つ目は癖のある人物、信条や信仰を持つことのできる人物を描くのが苦手である場合です。
最後に、色々と賛否をあげておいてなんですが、個人的には非常に哲学的に感じるところの薄い作品だと思いました。作者自身も自覚しているところかと思いますが、政治は最大多数の最大幸福を望むものであって、哲学はそれとは異なった位置にあります。昔、福田恆存(ふくだ つねあり)という人がいて、文学と政治について「一匹と九十九匹と」と記しています。政治の世界では一匹が犠牲になっても九十九匹が救われれば、それはよいことです。これは、ペニシリンのショック死が良い例であると思います。ただ、文学は九十九匹が救われても、救われなかった一匹に固執するのです。固執してしまうのです。わたしが繊細さと感じるところ、そしてそちらの作品に繊細さがないのではないか、と述べたのはまさにそこにあります。
「評する」とは、作品との対話、いえ、作品という水晶を通して作者自身と会話することにあると思っています。そして対話、あるいは会話はこの世でもっともシンプルな協奏でもあります。いくら片方が深浅に弦を震わせてみても、反響や呼応がなければ、手応えがなければ考えを深めていくことはできません。思わせぶりな態度の先にあるのは、確かな考えでしょうか? わたしの直感は、それの存在を否定しました。物書きは言葉を用いる生き物である以上、言外のコミュニケーションに頼りすぎるのは、少々危ういかもしれません。
わたしが解釈できたのは以上です。