感想メモ
> 重税を課し、麻薬にふけり、俺にも暴力を振るい、城下町には風俗街を作り、アフラ神ではなく、イシュタルという女神を祭り、売春税を取っていたのだった。
> だが、王族に対する恨みから王族を尊敬するものなど誰も居なかった。ゆえに自分は暗い性格であることを自覚している。いつっも「僕は……」と発言の途中で黙り込むことが多い。僕はそういう人間だ。
なので、僕に対して村人全員がよそよそしかった。
> 「本当です。俺の両親のように悪に落ちれば滅びます。闇は命を失う場です。そこに未来などないのです。俺がほしいのは未来と光です」
このあたりの一連の流れは誤字の可能性が高そうだと思いました。好意的に見れば内面の一人称は「俺」であり、外面の一人称は「僕」であると言えますが、そうなると三つ目の引用の台詞の一人称が「俺」であることに相違が生じるからです。ただ、単純にある文章のまとまりの中で単語を打ち間違えたのならば、「いっつも「僕は……」と発言の途中で黙り込むことが多い。俺はそういう人間だ」となっていたように思います。どちらかと言えば誤字の可能性が高いと解釈しておきます。
第一部第二章第六節まで読んで直感的に思ったことは「題材に癖があっても作品として癖があるわけではない」ということでした。文章自体は非常に読みやすいほうですし、展開も整理されています。読みにくい言葉にもルビ振りされていて、文章を人に読ませているのだという意識を感じました。故に、文章を自覚的に書く技量は高そうだと思いました。が、作品としてどうかと言われると疑問に思うところです。
分かりやすくわたしの体験を述べますと、わたしは過去にあなたのライトノベルを批判するエッセイを読んでいました。「若者のライトノベル離れ」というものですが、そちらは本論を読み終えることができました。これは、現状のライトノベルに対する憂いという点で、わたしの需要に噛み合っていたからです。では、今回の参加作の題材はどうかというと、別にわたしの需要には噛み合っていません。というか、癖の強い作品を募集する時点で「基本的に需要が噛み合うことなどない」のです。
ならば、この企画のどこに真意があるのかと言うと、「その題材をどのように扱うか」という作者自身の傾向にあります。他の参加者と比較してどうこう言うのはナンセンスですが、あえて挙げるとするならば、一人目の参加者の作品は、間違いなくあなたの作品より雑然としていました。雑然としているせいで文章も読みやすいというわけでもなかった。しかし、そこには都市の区画のような、整然としているせいで無臭というわけでもなかった。
あなたはよく調べものをしていますし、随所の言葉選びもよくできていました。平易に言えば雰囲気の構築がしっかりとできていました。ただ、そこまでです。「題材に癖があっても作品として癖があるわけではない」という言い回しは、前半については分かりやすいですが、後半はあなたにとって分かりにくいかもしれません。上記言葉を分解して整理すると
題材に癖あり→作品として癖なし
ならば、作品としての癖はどこで生まれるのか?
そもそも作品の定義とはなにか。
作品→題材・作者の協同創作
題材・作者共に癖あり→作品に癖あり
題材に癖あり、作者に癖なし→作品に癖なし
題材に癖なし・作者に癖あり→作品に癖あり
という考えが浮かびました。これは語呂の論理に近しいやり方で簡単に分解しただけなので粗末なものです。また、題材に癖があるからこそ作者に癖があってはならない、一人目の参加者に伝えたように「ライトノベルらしさ」のために作者の癖は取り除いたと考えているのであれば、それはそれで結構です。私的にはどちらでもよいですし。
小説を書くことはしばしば料理に例えられます。北大路魯山人の見解では、料理とは食材選びが九割なのだそうです。
> 「料理の美味不味は、十中九まで材料の質の選択にあり」と解してよい。言うなら種を選ぶことに、ベストを尽すべきである。
北大路魯山人 料理王国 材料が料理か より
であれば、小説を書くことは料理を書くこととは似て非なるものだと思いました。娯楽的には、おそらく逆の解釈でも成り立ちます。珍味や妙味に該当する題材を食べやすくしたものがライトノベルなのだと定義すると、あなたはしっかりライトノベルをしています。そのことに気づかせてもらえたので、ありがとうございました。以上です。