• エッセイ・ノンフィクション
  • 現代ドラマ

泥棒は嘘つきの終わり

 これ(泥棒は嘘つきの終わり)、5月3日は五味の日で書いた五味太郎のことわざ辞典に書いてたような気がします。ということは無意識にパクっていたか。申し訳ない。

 で、まあようするに、一昨日の話で何を言いたかったというと、「蛆を育ててるなんてそんなの嘘に決まってるジャン」「教師も触りたくなかったに決まってるジャン」って、思うようになったのは年を経て尻尾も二つか三つに割れてからであって(腹の段の話は誰もしていませんよ)、当時はたぶん割と素直に「はーそうか」「しゃーないやるか」って思ってた気がするんです。

 で、そのことがある意味では正解というか、救いになっているというか、つまり、虫を湧かせた彼が、本心から蛆を育てて楽しんでた場合、俺はその楽しみを奪った非道な人間である(まあ家でやれよ、という気はしないでもないが)けども、ずぅっとやっべーこれ虫湧いてるよ、でも気持ち悪いから触りたくない、でもこれを言うとめっちゃ怒られそう、って思ってたとすると、俺の暴きは結果オーライということになるんじゃあないかと思う訳ですね。

 また教師については、これも本心から、「指導」「教育」の名目で「その虫を処分してきなされ。それによって命のありがたみを知るが良い」みたいに思ってたんだとしても、「うっわ、マジ虫かよ、すげーな小学生。良くやるわ。気持ち悪。こいつ鈍そうだからこいつに片付けさせたろ」と思ってたんだとしても、別に結果オーライじゃあないですか。現に俺は片付けてるわけだから。

 とすると、確率的には1/4で俺の行動はマイナス(本当に虫を育てたかった場合のみ、それを論ってその行為をやめさせた非道な人間ということになる)だけども、残る3/4は素直にそれを信じて行動した方がトータル的には得ということになって、だからまあ、「嘘つきは泥棒のはじまり」なんて言いますけれども、嘘というものを許容していくのってそこそこ全体論的幸福を達成するためには実は大事なことなんじゃあないかなって思ったりするんですよ。

 なんでこういうことを書いたかと言うと、実は一昨日、デスクトップを断捨離(だからそれは整理ですよ)してたんですけどね。結構出てくるんですよ。書きかけの……成香ちゃんのやつとか……泥棒のやつとか……鋼鉄都市の感想とか……もっと前に公開していた超能力の話とか……そういうのが……

 これは捨離ってる場合ではないよな。ってちょっと思ったんです。書く書く詐欺になってやしないかと。でもね。嘘ってのは、嘘だと思わないで、ほら、信じた方が全体論的に幸福。とすれば皆さんは、「書くよ」と言ってるのは嘘だと思わないで信じていただいた方が幸福なのでは? なんてね。思ったりね。しないこともね。ないですね。

 アイタタ~石ですか。投げますか。そうですか。イテテテ~~~

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する