生きることは何よりも大事で、そのためには食べる必要があって、そのためには金がいて、そのために働いてると、生きることより働くことが大事な感じになってそれが嫌で嫌で仕方がないので二年前、仕事をブン投げたはずなのに気づいたらなんか忙しい。勘弁して欲しい。
更に買い物をする。料理をする。使った皿や包丁、ジップロック的容器を洗う。洗濯もする。掃除だってする。バランスボールにだって乗る。
人と会う。話す。クイズを考える。スマホゲームのスタミナだって使わないといけない。使わないといけないってことはないけどさ。スマホゲームのスタミナを使うくらいはさせてくれよということになる。
ほいでこないだ送別会やったばっかなのに歓迎会が発生する。
っていうのがたぶん、いわゆるところの「普通」の人生じゃあないですか。俺はそれでも「仕事」というところにおいて、たぶん遥かに人より働いていないだろうと思うので(ずいぶん前に近況ノートに書いた:
https://kakuyomu.jp/users/GJMMTG/news/1177354054881122767)、そこはアドバンテージなのかディスアドバンテージなのかわかんないけども、まあそれでもラクしてる方なんだろうな、とは思うけど、この「ラクさ」を以てしてもなお、自分で飯を作って食うという作業が人生に加わるともうダメっていうか、ダメではない。生活はしている。成立はしている。と思う。ギリギリのラインで、ではあるがしていると思う。
のだけど、本ってか一定以上の長さの文章を読む時間がなくなる。
いや別に辛いとかしんどいとかそういうことではないんです。そこまで辛くもしんどくもない。平々凡々たる日々である。悠々自適、とはちょっと違うか。なんていうのかな。平坦なぬんぬんとした日々である。
ハウエヴァ。本ってか一定以上の長さの文章を読む時間が、なくなるのである。いやそれでもちょいちょい読んでるけど、読むのが固定されたものっていうか、新規開拓の気力は無くなってしまう。
なんかネガティヴな感じになっているがこれは単に今日たまたま俺が疲れているからで、主張したいことはポジティヴなことです。というのは、今日言いたいことは何かと言うと、「読書が趣味」というのは、胸を張って言える趣味だということが分かったということなんです。
どういうことか。
俺は自分が無趣味な人間だと思っていた。サーフィンとか、スクーバダイビングとか、ビリヤードとか、ダーツとか、刺繍とか、BBQとか、山昇りとか、写真とか、選考基準が完全に不明だけどそういうことをようやらない。
いや本は読むよ。読むことはそりゃあある。でも「趣味」とわざわざ言うからには人にそれがある程度語れるというか、いや別に語る必要もないんだけども、なんていうのかなあ。他人と比較して、それに費やす時間が長い的なことを「趣味」と呼ぶ、みたいな考えがあるんですね。
で、読書というのは、当然、自明のこととして、みな生を保つためにしているものと思っていた。そういう状況下において、俺が「読書が趣味です」というのは、「私は趣味のないつまらない人間です」と宣言するのと同義、というような考えがあった。
んだけども、こう、生活の方に重きを置く人生を送ると、上に書いたように文章を読む時間がどんどん減じていく。ということはつまり、逆説的に言うと、世の人びとは、きちんと生活している人びとは生活をしているわけだから、文章を読むということを選択的・意図的に行っているんだろうなあ、ということにいまさらながら気づいて、ああそっか、いいんだ、読書って趣味で、ということに気づいた次第である。
全然まとまらないんですが、日付が変わりそうなのでこのへんで。