いないと思いますが、もし心配されていた方がいたら二日ほど留守にしていてすみませんでした。元気です。普通に。
先日飲み屋で知り合ったメリケンとちょいちょい遊んでいる。俺は英語が話せないしバベル魚も飼ってないが、向こうが日本語に堪能だから特にコミュニケーションに問題はない、のだけど、さすがに邦画だと微妙に分からない表現があって、そんでまあ映画の話で繋がったので、邦画の細かいところを教えたり俺もわかんねえわ、と言ったりしている仲、というところである。
それはいんだけども、アメリカ人ってしりとりしないんですってね。
「日本に来てからワカッタヨ、『りんご、ごはん』みたいなやつデショ?」
「その『ごはん』って言ったやつはゲームにつきあう気が微塵もなさ過ぎるけど、まあそういうやつだよ」
「ああ、『ん』がつくと負けかー」
このレベルよ。
いやー、蛮族だなと思いましたよね。それは言いすぎですけど。明らかに。でもまあ、「蛮族」という表現にも一理はあると思うんだ。
「野蛮」の「蛮」というのはこれ、「文明」「文化」との対立によって存在する言葉じゃあないですか。つまり、蛮族側は自分たちのことを別に「野」だとか「蛮」だとか思ってないわけでしょう。いや普通に、俺たちなりの文化で暮らしてますけどそれが何か? ってなもんなのに、勝手に「文明」「文化」側が、「うわー、俺らとぜんぜんちゃうやんけ」と思ってつけるのが「野蛮」「蛮族」というレッテルなわけで。この感覚には非常にマッチしている。
いやだから、俺の感覚は間違っているよ。感覚はね。理性的な人間、善なる人間であるならば他の文化・文明を尊重するべきであって、だからそういう感覚を持つことが良くないという批判だったら甘んじて受けようじゃない。
でも俺の感覚を表現したときに、「蛮族」という言葉を使うのはそんな間違ってないと思う。やつらは「しりとり蛮族」ですよ。
向こうにしてみりゃこっちは「英語蛮族」であって、「ライム(音韻)蛮族」であるわけで、いやだから、そのなんていえばいんですかね。このとき感じた面白い気持ち。蛮族って言葉を使うから伝わらなくなっちゃうのかな。
俺たちは宇宙船地球号に乗ってるクルーで、みんなで手と手を取り合ってくらしていこうって普段皆さんそうやって毎朝心の中で唱えながら暮らしていると思うんですけど、それは崇高な理念としては超わかるわけです。俺も毎朝そう思っているし、仕事終わりには近傍の神社に立ち寄っちゃあ「今日も地球号を守ってくれてありがとうございました、明日もシクヨロ」と願掛けしながら暮らしている。
でもそれは、そのクルー、というのが、ある程度なんていうんですか、まさに共通言語を持っているというか、共通言語というのは単に日本語とか英語とかいう話をしているのではなくて、「話がわかる」やつだと思うから成立する考えだと思うんですよ。何度か同じこと言ってる気がしますが、若者集団って定期的に新しい言語を開発しますけど、それって多分、ひとつの効能としては「この言葉を知っているお前は仲間、他は蛮族」ということを明らかにするということがあると思うんですよね。まあそれは余談として。
話、ってどうやったらわかるかというと、ひとつは共通の体験じゃあないですか。「あるある」ですよ。
「公園でブランコに揺られてさ」
「あるある~」
みたいな。これに「あるある~」って言うやつは「話聴く気ないのかな」って思うと思いますけど、俺が言ってるのはそういうことじゃあないのは賢い皆さんならお分かりですよね。つまり、「公園でブランコに揺られる」という体験は皆さんしておるわけですよ。大体ね。だから、それこそここ近況ノートは創作活動を書く場所ですから創作論のひとつも書きますと、「公園で子どもたちがブランコに揺られながら楽しげな声をあげている」なあんて描写をすることで、これは「現代ドラマ」で「今は特に不穏なこともなくて、わりに全体としてはハッピーな雰囲気」みたいなことを表現するわけですね。まあ、「そんな中、獅子御門は陰鬱な気持ちでベンチに腰掛けている」みたいに対比する、ということもあるでしょうが、今はそういうことが言いたいわけではなく、この表現が「基本的には現代かその近傍の話」「比較的ハッピー」ということがわかるのは、実は「公園でブランコに揺られた体験」というものがみんなに共通してあるでしょう、という認識に基づいて存在するわけです。
ところがよ。
お父さんと子どもが電車に乗っている。
子どもは「ね……ね……」と呟いて難しい顔をしてる。
お父さんは、両手を顔の前に上げてこぶしを作り、「にゃーお」と言う。
子どもはそれを見て目を輝かせ、「ねこ!」という。
そんで、「こ、かあ」と言うお父さんに、うれしそうに樹に抱きつくマネをしてみせる。
なんてな表現、我々には「あー、仲良し家族の肖像だ」ってわかるじゃあないですか。アメリカ人にはぴんとこないわけよ。やつらにはこの文章に含まれるコンテクストが読めない。話のわかんねーやつらだな、ってなるでしょ。なるのは俺だけかもしんないですけど。
いや皆さん、いろいろお詳しいですから「そんなこと知ってたよ」ってなるかもしれないんですけど、俺は新鮮だったんですよね。へー、って思ったんです。「みよしの」は札幌にしかない、って聞いたときみたいな感じですよ。だから俺は「みよしの」蛮族の皆さんに向かって、それでもある程度は面白いと思っていただけるように小説ないしエッセイ、および近況ノートを書いていくことになるわけですし、逆に皆さんは「ぺヤング」蛮族の俺に向かって、その俺でもわかる話を書かないといけないわけですよ。そりゃあ難しいよね。
そのような世界の中で我々は暮らしていて、まあだったらそりゃあトラブルも起こりますよね。でもそういう中でトラブルが表面化せず、楽しくやっていけるときというのはすごいハッピーだなと思うわけです。来年度もよろしくお願い致します。