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僕は温泉に向かない

 いや温泉(ここで温泉とは、「でかい風呂」くらいの意味です)は好きなんですが、どうも温泉宿で執筆する、というのがダメ。正確には「宿」ではないけど。

 どうダメか。

 全か無かの法則という法則があって、悉無律、なんて昔の人はかっこういい感じで呼んでるやつ。筋肉というのは普通、状況に応じてそのはたらきの程度を変えるわけである。そらそうよね。だって、例えば軽い羽毛を持ち上げるのに、巨大な鉄塊を持ち上げるのとおんなじだけ筋肉を使った場合、この世にはマッチョしかいなくなる。範馬刃牙がたいくの授業でランニングしてる時みたいになってしまう。ロードローラーだッ!

 ところがこの「はたらきの程度」ってやつの変わり方は、考えようによっちゃあ変で、というのは、五の力が欲しい時は五だけ、十の力が欲しい時は十、個々の筋肉が動いてくれればいんだけれどもそうはなってない。そこには全か無かの法則が働くからだ。たとえば一個の筋肉君をクロオズ・アップしてみれば、五よりおっきい入力が入った時は常に働く。一とか三とかでは働かない。三の時もちょっと動いてくれりゃあなあ、と思うがそれは頑として動かない。かわりに、と言うのも変だが五でも十でも一億でも(たぶん一億の時はGウィルスか何かに感染してる)動く。全部動くか、まったく動かないかで全か無か、である。でじゃあ、我々はどうやって微調整してるのん、と当然の疑問が湧くが、ようするに一でも働くやつ、三でも働くやつ、十もらわんと働きまへんよ、この世はおぜぜでっせと言うやつ、そんなんが適当に分布しているので、総体としてはま、必要に応じて使えるとそういうことになっている。おめでとうございました。いつまでもお幸せに。良いお年をお迎えください。

 それで分かっていただきたいのは、全か無かの法則が有効であるのは個別に動く何者かが総体としてある課題に取り組むときである、ということである。個、だけ取ると不便でしゃあないが、まあ全体でみればなんとかかんとか、ということ。

 でね。

 俺は個なんですよ。びっくりするかもしれませんが。雅島貢というのはマイクロボットがまとまって動いている存在ではないのです。驚かれるのも分かりますけどね。昨今はあまりいませんからね。個として暮らす、ということを選択している人は。みなさん大体日本海か太平洋かで赤いなんかドロっとしたやつになって、で、泡沫のように生じる過去自分であった何者かの記憶、を頼りにカクヨムにアクセスして(カクヨムとはそうした性質を持つサイトで、これはだからある種レジスタンス的な存在ではあるのです。機能してるかというと微妙な線ですが)、その時だけはあの悪しき「個」の時代にまるで戻ったかのような記憶・感覚を再構成してると思うんで、あ、じゃあ別に今この瞬間はびっくりしないか。サイトを閉じて、ドアを開けた瞬間、あなたは「総体」そのものであったことを思い出し、そこに還っていく。そのときにびっくりするんでしょうね。「今時『個』とかやってるやついんの? だっせ」みたいに。

 何言ってんだ。そしてなんの話だったか。

 つまり個体で全か無かの法則を採用するのはいまひとつダメ、ということなのであるが、俺の思考形態って全か無か、の傾向が強いということを言いたかった。ただこの「全か無かの法則」って若干マイナーな法則かなと思ったので説明しようと思ったのであった。

 温泉に浸かってしこうして執筆をするのはどういう作用を期待してかと言うと、まあ一つは俗世・浮世の柵から一度離れるということがあるんだと思う。職場で書くというのは(俺はたまにやるけど)、まあなんていうかあまり褒められたことではないし、じゃあってんで家で書くとこんだぁ部屋のあっこを片付けなくては、ごみを捨てなくては、年末調整の書類が届いてるからまとめて束にしておかないと確定申告の時困るぞ、とかそういう感じになってあまり集中できない。それではスター・バックスに行って、キャラメルマキアートトールデカフェでとか呪文を唱えたのち、席に着いて書く、ってのもなんかちょっとねえ。キャラメルマキアート飲み終わった後ってみなさんどうしてるんですか。
 そういう意味ではサイゼリアはドリンクバーでドリンク飲み放題なのでたまに使うが、まあサイゼリアは一つの解答ではある。サイゼリアはいいぞ。ただサイゼリアには別の仕事をしにいくことが多いので、そうですね、こんどやってみようかなサイゼ執筆。

 でまあだから結論は「サイゼリアに行け」だが、それを結論にしてしまうと、ここまで我慢に我慢を重ねてついてきた皆さんが、「温泉はどうしたんだ」「全か無かの法則ってなんで話したんだよ」となって怒りのあまりせっかく準備した注連縄を引きちぎって悶えてしまう可能性もあるので、注連縄というのは一般的に言ってあまり引きちぎったりしない方が良いので(正月があけたら最寄りの神社等に持っていて焼くのがいいらしいですよ)、えっと今日はとりわけ寄り道がひどい。多分ちょっと酔ってるのかもしれないですね。

 話を戻す。温泉なんかに泊まって執筆をする。文豪とかがやりますね。イメージですが。この効用は俗世の柵から離れるところにある。なるほど確かにそれはいい。温泉に泊まっちゃったら、もう「あー洗濯機まわさなきゃあなあ」とかいうことを考えずに済みますからね。百、執筆にエネルギーを回せる。よかばいよかばい。

 ところがであります。

 おそらくもひとつ「温泉」を選択する効用に、「風呂に入ってリラックスをする」というのがあると思うんですね。問題はここなんでェござンすよ。

 普段皆さんは、いろいろなことを考えて暮らしていらっしゃると思う。食事のこと。異性のこと。睡眠のこと。家事のこと。仕事のこと。涼宮ハルヒのこと。などなど。
 で、このうち、「温泉宿」という場所に居所の限局をすることで、かなりの部分が削除できる。さらに、温泉でリラックスすると、不安なことやらなにやらから解放されて、かなりの余力が生まれる。この余力を以て執筆に挑む。そういうことだと思うんですけど、俺はどうなるかって言うと、この余力が発生すると同時に寝てしまう。だから全か無か、なんですね。

 どうもある程度、何と言いますか、覚醒を保つためには周辺領域における思考圧と言いましょうか、「あれやんなきゃなあ~」「本当はこれを優先してやらねくてはなんねい」という一種のプレッシャーが必要で、つまり逃避なんですね、俺の執筆の最大の動機というのは。おそらく。
 
 ということが分かりました。難儀です。
 
 まあ逆に言うと、「それをやってる場合じゃあない」という状況を作り出すことによって執筆に集中できるのでは、と思うので、この年末はすべての棚と引き出しをひっくり返し、USBメモリの情報をすべてデスクトップにぶちまけて、「うおお掃除しないと年を越せないがすごいやりたくない」という状況を作り出し、それによって執筆力を高めていこうかと思っています。思っていますが、それはどうなんだろうという冷静な社会人の部分もあり、大変難しいところです。

 繰り返しになりますが、よいお年をお迎えください。

1件のコメント

  • おはようございます。Godjimaこと雅島です。
    温泉こもるのいいアイデアじゃん、と思ったんですがただただ寝てしまい、人間味があって可愛いですね。和風の神です。またはギリシア圏。

    今自分で勝手に設定した〆切で苦悶してるのですが、いや今年もあと4日ですか。驚きですよね。日付をプレッシャーにして頑張ります。
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