※あくまで個人の感想です。まあ、近況ノートに個人の感想でないものをどうやって書けと言うのかという問題があるが、一応。デリケートな問題であるような気がするので。
なんかトップページみているとそういうエッセイが沢山存在する。
私見としては、小説「だけ」の力で上位に行くのは難しかったのかもなあ、という感じ。時の運、あるいは営業力、そういう力が必要であったということは否定できない気がする。つまり一次選考を通過していない作品にも、良きもの、選考通過したものよりも良いと思うものは、ままある。
では一方、時の運、あるいは営業力「だけ」で一次選考は通過できたのであろうかというと、それも違うと俺は思う。
前も同じようなことを書いたが、俺は結構レビューをしており、もう俺Tueeeは更新停止されてしまったが、現時点でも結構上位なのは間違いない。
であるけれども、もちろん俺のしたレビューをきっかけに俺の物語を読んでいただいて、ありがたい評を頂いたり、交流を(一方的に)(それは「交」と言えるのか?)している方もいるのでまったく効果なし、と言うつもりもないが、営業力「だけ」ではダメだったということである。
※別に「営業」をしていたつもりもないのであるが
※※それがダメだったのかもしれない
※※※俺が知らない正しい――でなければ、つよい、かしこい――「営業」の方法というのがあるというのであれば、この話はちょっと変わってくる
まあこれはようするに俺の小説の力不足ということで素直に受け入れるよりほかにない。つまり、こういう状況であるので、一次選考を通過した作品は少なくとも単なる営業力、時の運だけでは説明しきれない小説そのものの力があることも否定できないのではなかろうかと思う。
で、まあ、だから、何が言いたいのかと言うと、これを言うと滅茶苦茶軽蔑されそうであるが、ええとですね。
俺がたとえば、イケメンコンテストというのは、人間の価値を外見に求めるものであって、それは人権的見地からゼッタイダメ、廃止すべし、と訴えるとするじゃあないですか。
そうすると、その主張がどれだけ正しかろうとも、一瞬、普通の、凡百の人間は、俺が醜男だから嫉妬に駆られてそういう主張をするのでは? と思うのではなかろうかと思うんですね。
つまりイケメンコンテストの批判を虚心坦懐に受け取ってもらうためには、批判者もまたイケメンでなくてはならないというそういう人の世の壮絶さがあるような気がするということなのである。
もちろん諸君にも、もちろん俺にも理性というものがあって、だから、冷静に、理性をギンギンに働かせれば、その主張と主張者の美醜は関係ないですよ、ということは分かるし、そこは切り離して主張の是非を問うべきだということも分かる、んだけど、ぼーっとしていると、少なくとも愚かな俺はそういう気持ちが一瞬湧き上がってしまう。で、いやいやそれは、それは愚者の考えであって、理性的に、きちんと、主張そのものを問い直さなければ、というプロセスを無理やり発生させて、以てようやく理性的な判断をする。
いや、うん、分かりますよ。軽蔑するならするといい。しかしこれが俺の本質なのである。
俺くらい愚かな人間がそう多くいるとは思えないが、しかしいないと断言することもできない。であれば、そういう悪意・邪念を向けられる可能性は下げた方が良いのでは? という感じもちょっとだけしてしまうのである。
ただねえ。これは凄いなんていうか、キタナイ大人の意見って感じがして、この意見自体俺が好きか嫌いか、と言われると、客観的には嫌いで、むしろ不細工が全力全開でイケメンコンテスト死ね!! と絶叫している方が好きという側面があったり、となると嫌いなのは、どっちつかずの顔面の人間がなんかぼやっと主張をしているところであって、それはまさに今俺が書いていること、であるのかもしれず、難しいところだよなあ、とは思うんだけど、その辺りの感覚をつらつらと書くとそういう感じになるということであった。
結論としてはみんな好きなことを好きなように言えばいいと思うんだけど、ちょっとそういう論旨が予想されるものはしばらくクリックしないようにした方が、俺にとっては幸せなのかなということになりました。お疲れ様でした。
あと、超そもそもを言うと、小説だけの力+営業力、時の運が必要であったこの選考方法が、『売れる小説』を見出すのに向いているか、という議論だと、ちょっと話は違ってくると思うけど、まあ、これはカドカワが多少赤を出してでも色々試すしかないところだと思うので、そういう論調であれば別にいいかなというか、むしろマーケティング的な側面から考察している話とかは読んでみたいなあ、興味本位で、という感じです。
ようするに臆病で小心な人間であるので、弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩くみたいな光景、利用者同士の殴り合い、みたいなのが苦手とそれだけのことなのかもしれない。