うちのラスボス予定のドラキュラは『吸血鬼ドラキュラ』に登場する架空の吸血鬼ではなく、実在の人物だからです。
ルーマニアが現在の形に統合される前、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ワラキアのみっつの公国に分かれていたころ、現在のブカレストとトゥルゴヴィシュテを含むルーマニア南部、ワラキア公国を三度にわたって統治したワラキア公、ヴラド・ドラキュラ。
歴史に名高いトゥルゴヴィシュテの夜戦ののちオスマン帝国兵から畏怖を込めてカズィクル・ベイの名で呼ばれる様になった人物が、うちのドラキュラです。
つまり、史実のドラキュラ公爵が吸血鬼になったという体裁をとっているので、伯爵ではなく公爵なのです。
ちなみに当時のワラキア公国、というかルーマニア三公国は西のハンガリーと東のオスマン帝国のそれぞれの思惑の影響を受けて、その代理戦争の舞台になっていました。
のちにワラキア公となるヴラド三世は1431年(1430年説も)11月10日、トランシルヴァニア地方のシギショアラでヴラドレシュティ家のヴラド・ドラクルの次男として生まれました。
ドラクルとは竜公の意で、ヴラド二世が神聖ローマ帝国から竜騎士団の騎士に叙任された際、竜騎士団の竜(ドラコ)に由来して冠されたふたつ名です。
男の吸血鬼をドラクル、女性の吸血鬼をドラキュリーナと呼ぶ設定を見かけますが、なにに由来するものかはよくわかりません。とりあえず男性の吸血鬼個体を意味する言葉でないことだけ覚えておいてください。
ちなみにドラキュラは竜の子と言った意味合いで、竜子公もしくは小竜公と訳すのが近い様です。
ドラクルには悪魔という意味もあるので……小悪魔公? ないわー……
1436年父ヴラド二世が竜公ヴラド(ヴラド・ドラクル)としてワラキアの公(ヴォイヴォダ)となり、バルカン半島へと進出を続けるオスマン帝国に対し断続的に交戦していました。ハンガリーとは緊張関係を孕みつつも協調関係を維持し、危ういところで均衡を保っていた状態です。
1444年にヴァルナの戦いでワラキア公国を含むバルカン半島の諸侯連合軍・ヴァルナ十字軍がオスマン帝国に敗北、ワラキアはオスマン帝国に臣従を余儀無くされ、ヴラド三世は弟のラドゥとともにオスマン帝国の人質となります。
1447年、ヴラド二世及び長男のミルチャが暗殺されます。
ハンガリーの最有力貴族でもありトランシルヴァニア公でもあるフニャディ・ヤーノシュはヴラド三世の又従兄弟にあたるダネスティ家のヴラディスラフを支持し、彼をワラキア公として擁立しました。これに対してオスマン帝国に人質として差し出されていたヴラド三世はワラキア支配を目論むオスマン帝国皇帝の支援を請い、そのバックアップを受けて、ヴラディスラフを排除しワラキア公の座に就きました。
のちにはオスマン帝国に対して恐怖戦術とゲリラ戦を駆使して徹底抗戦したヴラド・ドラキュラですが、この当時はむしろオスマン帝国の傀儡となる形だったわけですね。
しかし、二ヶ月でフニャディ・ヤーノシュに敗れ、ヴォイヴォダの地位を奪われてモルダヴィアへ亡命することとなります。
1451年に亡命先のモルダヴィア公ボグダン二世が暗殺されると、ヴラド三世はトランシルヴァニアに戻り、フニャディ・ヤーノシュの許に身を寄せました。擦り寄る相手が真逆になってるわけですね。それでいいのかおい。
フニャディ・ヤーノシュがヴラド三世を受け入れたのは、ハンガリーが支持してワラキア公に擁立したヴラド三世の又従兄弟ヴラディスラフ・ダネスティがハンガリーの意向を無視してその保護国から脱しようとしており、代わりの神輿が必要だったからです。
結果1456年、独立を果たそうとするヴラディスラフを疎んじたフニャディ・ヤーノシュの支援の下で、ヴラド三世は再びワラキア公に返り咲くこととなりました。
1459年、ヴラド三世はワラキア領内の大貴族を打倒して権力を掌握、中央集権化を進め、公の直轄軍を編成し、さらにオスマン帝国への貢納を拒否しました。
オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラド三世は使者を生きたまま串刺し刑にします。これについてヴラド三世は無礼があったためと釈明しました。
串刺し刑は当時もっとも下賤な者=犯罪者に対する極刑とされており、名誉もなにもあったものではない刑でした。
その後、オスマン帝国の皇帝メフメト二世は大軍を率いてワラキアに何度か侵攻します。
兵力に劣るヴラド三世はゲリラ戦と焦土作戦で以って激しく抵抗し、その都度撃退に成功しました。
1462年の戦いでヴラド三世はメフメト二世の首を標的とした夜襲を敢行してオスマン帝国軍の多数を殺傷するも、常備歩兵軍の親衛隊・イェニチェリの激しい抵抗に遭ってメフメト二世の殺害には失敗しています。これが歴史に名高いトゥルゴヴィシュテの野戦です。
その後、ワラキアの首都トゥルゴヴィシュテに入城したメフメト二世を待っていたのは森のごとく乱立した大量のオスマン帝国兵の串刺し死体で、それを見て戦意を失ったメフメト二世はワラキアから撤退しました。
この逸話から、オスマン帝国ではヴラド三世はカズィクル・ベイ(トルコ語で『串刺し君主』の意)と呼ばれる様になります。
ちなみにヴラド三世はドラキュラという異名のほかにツェペシュという異名も持っており、こちらはルーマニアでの異名です。ヴラド・ツェペシュで串刺しヴラドの意味ですね。
ヴラド三世が串刺しでの処刑を好むことからついた異名です。直接本編には関係しませんが彼が串刺しにした死体を野晒しにすることを好んだために領内に生息する羆が死体を喰って人肉の味を覚え、人間を襲って獣害事件が頻発したという時代設定を考えてます。なお、当時のヴィルトールは脳に届かせられる刃物さえあれば羆に勝てるので、後述するラドゥ政権時代に専横していたオスマン帝国軍の命令で羆退治に駆り出されていました。
余談ながら、アルカード、つまりドラゴス家のヴィルトールが生まれたのは1461年前後だと思います。そもそもアルカード本人が正確な自分の誕生日や年齢を把握していないので(十七歳くらいだと思っているが、そもそも当時の暦が不正確)、考えても意味が無かったのです。
で、オスマン帝国側が立てた策はワラキア公国の内紛誘発でした。
ここからは史実に俺の想像を織り交ぜた設定としての虚構です。実情からそれほどはずれてはいないと思いますが、事実そのものではありませんので、そのつもりで読んでください。
バルカン半島諸侯連合軍とヴァルナ十字軍の連合軍がオスマン帝国に敗北したあと、ヴラド三世とその弟ラドゥはイスタンブールに人質として差し出されました。
第一次ドラキュラ政権はつまり、ヴラド三世を傀儡にしてオスマン帝国の属国化するために帝国によって擁立されることで成立した政権だったのです。
でもオスマン帝国のバックアップは貧弱で、ヴラド三世は一度排除したヴラディスラフ・ダネスティを支援するハンガリーに物量で押し負けて排除されたわけです。で、そのヴラディスラフ・ダネスティがハンガリーの属国であることを嫌って独立しようと試みたことでトランシルヴァニア公であり当時のハンガリーの最有力貴族のひとりでもあったフニャディ・ヤーノシュの不興を買い疎んじられたのを知り、これなら俺が後釜になれる!と考えてフニャディ・ヤーノシュがヴォイヴォダを務めるトランシルヴァニアに身を寄せたわけですね。
ちなみに当時のハンガリー王は当時のオーストリア公・ボヘミア王・ハンガリー王を兼任していたラディスラウス・ポストゥムス(ハプスブルク家のラースロー五世)です。
父はローマ王兼ハンガリー王、ボヘミア王アルブレヒト二世、母は神聖ローマ皇帝ジギスムントの娘エリーザベト・フォン・ルクセンブルク。テューリンゲン方伯ヴィルヘルム三世の夫人アンナ・フォン・エスターライヒとポーランド王カジミェシュ四世の妃エリーザベト・フォン・ハプスブルクの弟にあたる人物です。
アルブレヒト二世は妻エリーザベトとの間にラディスラウス以外の男子を授からなかったので、第三子の長男ということになります。
しかしラディスラウスは1440年生まれ、1440年5月15日に母エリザーベトがセーケシュフェヘールヴァールで戴冠式を執り行いオーストリア公として即位しましたが当時のラディスラウスは生後三ヶ月。
無論赤ちゃんのラディスラウスに実際にまつりごとが行えるわけもなく、1442年に死去したエリザーベトは急死したアルブレヒト二世の又従兄弟であり分家筋にあたるインナーエスターライヒ、内オーストリア領主を務めるフリードリヒ三世をラディスラウスの後見人に指名します。
しかしフリードリヒ三世はエリザーベトの意に反してラディスラウスを幽閉、オーストリアを自分の領土同様に支配する様になりました。
1444年11月10日、ヴァルナの戦いでハンガリーの前王ヴワディスワフ三世ヴァルネンチク(ウラースロー一世。ヴァルネンチクは『ヴァルナの人』の意で、ヴァルナの戦いで戦死したことに由来する異称)が戦死すると、ハンガリーの等族は多くの人々の反対を押し切ってラディスラウスをハンガリー王に選出し、ウィーンに代表団を派遣してフリードリヒ三世に対してラディスラウスとハンガリー王冠を引き渡すよう願い出ましたが、フリードリヒ三世はこれを拒否しています。
このため1445年からがラースロー五世の在位期間となっていますが、実際にはハンガリー王国の玉座は空位の状態でした。
で、これがこの記事の趣旨にどうかかわるのかというと、ラディスラウスがフリードリヒ三世の幽閉から解放される1452年までの間ハンガリー王国の摂政として王国を実質的に統治していたのがフニャディ・ヤーノシュだったのです。つまり1451年にヴラド・ドラキュラが転がり込んだ当時のハンガリーの実質的な最高権力者だったのですよ。
フニャディ・ヤーノシュは1457年、弱冠十七歳にしてラディスラウスが死去したのちに新たなハンガリー王として君臨することになるフニャディ・マーチャーシュの父親でもあります。
話を戻しますが、前述したとおりヴラド三世は弟のラドゥともども当時のオスマン帝国に人質として差し出され、ヴラディスラフの対抗馬として帝国によって擁立されました。
では弟のラドゥはどうなったのかというと、すんごい美形だったために当時は皇子だったメフメト二世の寵愛を得て、帝国にとどまっていました。アッーな関係だったのかはわかりませんが、ヴィルトールははっきりと彼を色小姓と呼び、オスマン帝国の支援を受けている理由が自分の尻しかないと看做してさげすんでいます。
作中におけるオスマン帝国が始皇帝即位後の秦の様に専横を極め、その手先となっているラドゥを心底侮蔑していました。
で、オスマン帝国はラドゥを擁立し、さらにヴラドから離反した貴族達を糾合させ内紛を誘発して権力基盤を崩壊させ、ヴラド三世の追い落としに成功します。
ヴラドはトランシルヴァニアに落ち延びましたが、ハンガリー王でありトランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュの息子でもあるフニャディ・マーチャーシュ一世にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となりました。この頃に、最初の妻がポエナリの城の塔から投身自殺しています。
ちなみにこの容疑は完全な言いがかりです。実際にオスマン帝国の支援を受けていたのは、ヴラドではなく彼を追い落としたラドゥだったわけですから。
なお、ヴィルトールの出生が露見した際に人質としてヴラド三世に差し出されたグリゴラシュは、このときヴラド三世と一緒に捕らわれの身になっています。不幸な少年時代だな。
ヴラド三世が幽閉から釈放されたのは十二年ののち、1474年の話です。
さっさと殺せばいいものを、なぜ十二年間も幽閉していたのかはわかりません。一説によると、十字軍への参加を拒否する口実として利用していたとも言われています。
釈放自体は理由がありました。オスマン帝国軍がモルダヴィアに侵攻を開始し、ハンガリー王国の支配地域が侵される可能性が現実のものになってきたためです。
このため直接トランシルヴァニアやハンガリーに攻め込めない様に抑えになる勢力が必要で、そのために親オスマン派のラドゥを排除して、ヴラド三世をワラキア公に据えることで自国の安全保障を確保しようとしていたのです。
この当時、ワラキアの封建貴族たちはちょうど中国や南朝鮮に媚び諂う民主党政権のごとき朝貢外交を行うラドゥと好き勝手に領土侵犯を行うオスマン帝国軍に嫌気がさしており、オスマン帝国の影響力を排除するために内部決起のチャンスを狙っていました。
この当時グリゴラシュは一足早く釈放されており、マーチャーシュ一世の密偵としてオスマン帝国の干渉に不満を抱くワラキアの封建貴族たちに秘密裏に接触、彼らを焚きつけて内部からラドゥを排除する動きを起こすことを命じられていました。
この間、ヴラド三世はカトリック教国からの支援を得ようとして正教会からカトリックに改宗し、マーチャーシュ王の妹マリアと結婚します。しかしこの改宗によって、彼は東方正教中心であったワラキアの民衆の人心を失うことになりました。
1476年、ヴラド三世は三度目のワラキア公に返り咲くも、同年(1477年説もある)、現在のブカレスト近郊でオスマン帝国と戦って戦死することになります。
作中においては1477年、もしくは1478年を想定しています。ヴラド三世は暗殺もしくは戦死したのち、蘇生して吸血鬼化することになりました。諦めを踏破したアーカードさんは、首を刎ねられる直前に血を嘗めていますが。
長くなりましたが、こんな感じです。一部設定としての虚構とかが混じってますので、史実と異なる部分もありますが、あまり気にしないでください。
というかそれ言ったら、吸血鬼ドラキュラなんか伯爵ですしね。
当時ワラキアにおける爵位に伯爵は存在しなかったそうなので、少なくとも吸血鬼ドラキュラが貴族だったとしてもワラキアの貴族ではないです。ただ当時のハンガリー、およびその属国であったトランシルヴァニアや、両国と国境線を接するモルダヴィアはどうだかわかりません。
以上のとおり、うちのドラキュラはブラム・ストーカーの小説に登場するドラキュラとはかかわりなく史実のドラキュラ公ヴラド・ツェペシュが吸血鬼になった体裁を取っているので、伯爵ではなく公爵です。
アーカードなんかは、なんで伯爵だったんだろう? はっきりワラキア公であったことが明示されてるのに。 まあ、なんか出自は違うっぽいですけどね。
あの描写だと、少年十字軍に参加して売り飛ばされ、男色の変態に掘られてから、ワラキアのヴォイヴォダとなったみたいです。実際に少年十字軍は女衒に騙されてどこぞに売り飛ばされてた様なので、最終的に権力者として大成したアーカードはましな部類だったのではないでしょうか。アッーな目には遭ってますけど。一緒に行った仲間はアッーな目に遭って、そのまま殺されたかなんかしたでしょうし。