《瀬戸内海 村上水軍》
村上氏の歴史は、平安時代末期に始まり、祖は清和源氏と伝えられていますが、定かではありません。能島村上氏に関する具体的な記録は南北朝時代からで、貞和4年(1349年)、東寺の荘園となっていたこの地域の治安を守るために、室町幕府が能島村上衆に警護料を支払った、という記録があります。
伊予の守護・河野氏の家譜『予章記』には、四国統一を目指す讃岐・細川氏から攻撃を受けた貞治4年(1365年)、能島村上氏の頭領・村上義弘が、河野家の幼い当主・通堯(みちたか)を擁護して戦った経緯が書かれています。
義弘の死後、村上氏は能島・来島(くるしま)・因島(いんのしま)に別れ、以後、三島村上氏と言われました。結束は緩かったもようです。
天文10年(1541年)頃、山陰の尼子詮久と防長の大内義隆の間で、安芸国の支配をめぐる対立が激化。能島村上氏内部でも、尼子につくか大内につくかで対立が生じ、家督争いが絡んだ深刻な争いとなりました(異説あり)。尼子方の惣領・義雅と嫡子義益を、大内方の義忠(義雅の弟、武吉の父)と隆重(義雅の弟、武吉の叔父)が倒し、庶家から入って惣領家を継いだのが、武吉です。
三島村上氏のうち、因島村上氏は、早くから毛利氏に、来島村上氏は河野氏、後に毛利・豊臣に臣従しました。惣領の能島村上氏(武吉)は、最後まで独立を貫こうとしたため、秀吉によって海上の活動を封じられました。
以下に、簡単に村上武吉の年表を書いておきます。
天文2年(1533年):武吉 誕生(幼名:道祖次郎
天文21年(1552年):武吉20歳 家督相続争いに勝ち、能島一門の統帥となる。
同年、陶晴賢(すえはるかた)が、主君の大内義隆を自殺に追い込んで防長の支配権を握り、安芸・備後の毛利元就と対立を深める。
武吉は、当初陶氏に協力的であったが、天文23年、石見国津和野の吉見氏が陶氏に叛旗を翻すと、反陶方となる。
天文23年5月、毛利元就は、陶氏支配下にあった厳島を占領し、宮ノ尾城を築く。
天文24年(1555年):武吉23歳 厳島合戦にて、毛利方につき、勝利。
毛利元就の使者(水軍提督)・乃美宗勝が、武吉に援軍を求める。
毛利水軍 五・六十艘+村上水軍若干(約三千人) vs 陶氏 周防水軍五百隻(約二万人)。毛利方が大勝し、陶晴賢は自刃。
以後、毛利方の水軍として、対大友戦で功績をあげる。一時、大友氏へ傾斜し、毛利方に攻められるが、これを撃退。
元亀3年(1573年)10月:武吉41歳 毛利・浦上・宇喜多氏の間で講和が成立し、武吉は、再び毛利方となる。
天正4年(1576年)7月:武吉44歳 摂津木津口の海戦にて、織田信長の水軍を、毛利・村上水軍が撃破。
天正6年(1578年)11月:武吉46歳 織田水軍と再戦、この時は敗退。
以後、織田信長は羽柴秀吉を通じて、村上武吉を味方に引き入れようとする。が、天下布武を目指す信長と、地方重視の毛利氏との意向は合わず。武吉は、毛利氏への義理を立て、信長の誘いを断る。
天正10年(1582年)6月:武吉50歳 本能寺の変で、信長死亡。
天正15年(1587年)夏:武吉55歳 能島城を秀吉に明け渡し、周防国屋代島(山口県大島郡)へ移る。
天正16年(1588年)6月:武吉56歳 秀吉、刀狩令および海賊禁止令を発布。
この禁令に背いたとして、秀吉は武吉・元吉父子に切腹の命を下すが、小早川氏が武吉をかばった。
文禄元年(1592年):武吉60歳 秀吉、朝鮮へ出兵。
慶長3年(1598年)8月:武吉66歳 秀吉死亡。
慶長5年(1600年)9月:武吉68歳 関が原の戦いにて、西軍敗退。
武吉の長子元吉は、道後にて騙し討ちに遭う。毛利軍退却。
慶長9年(1604年)8月:村上武吉死亡、享年72歳。
本作品は、天文24年(1555年)9月30日~10月1日の一夜で、毛利・村上連合軍が圧倒的多数の陶軍を破った、厳島合戦を題材としました。以後の毛利氏と村上水軍の盛衰を決める決定的な戦いで、多くの記録や軍記物語の題材となっています。(『棚守房顕覚書』・『二宮俊実覚書』・『森脇覚書』・『武家万代記』・『陰徳太平記』・『萩藩閥閲録(村上図書)』・『萩藩譜録(村上図書)』など)
研究者によって、この合戦における能島村上氏の参戦を疑問視する意見があります。また、村上氏の由来・歴史に関しても、諸説存在しています。かなり簡略化した解説ですので、詳しくは史書をご覧下さい。
■本文解説
注①関船:水軍の主力軍船。鋭い船首で敵船に体当たりし、破壊することが可能。
注②小早:小型の関船。船足が速く、偵察や追跡に用いました。
注③大山祇神社(おおやまづみ):大三島にある、伊予国一品宮。中世には「三島さま」と呼ばれました。主祭神は大山積尊。河野氏の氏神でもあります。社殿は国の重要文化財。鎧や刀など、国宝八点を所蔵しています。
注④過所旗:これ以前、瀬戸内海を航行する船は、安全のため、有力海賊の一人を実際に船に乗せる『上乗り』を行っていました。一人を乗せていれば、他の海賊は手を出さない掟がありました。やがて、この警護料を払ったことを、旗で示すようになりました。村上氏の旗は、瀬戸内海全域で通用したようです
。
注⑤緋羅紗の陣羽織=猩々(しょうじょう)陣羽織:緋羅紗の赤は、魔よけの効果があるとされた架空の動物「猩々」の血の色と考えられていて、戦国大名の間で人気がありました。
注⑥厳島神社(いつくしま):宮島にあり、推古天皇即位元年(598年)に建立されたといわれています。『日本後記』には、伊都岐島神として記載されています。主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三神。現在の社殿は、平安時代1168年に平氏によって造営された寝殿造りの様式を伝えているもので、度重なる火災を超えて再建されています。社殿は国宝、大鳥居は重要文化財、全体が世界遺産に登録されています。大鳥居は、平安時代には既にあったそうですが、詳細は不明です。
■カブトガニTachypleus tridentatus
瀬戸内海沿岸では「どんがめ」と呼びますが、勿論、カメ(爬虫類)の仲間ではありません。カブトガニ綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属の節足動物です。化石は約5億年前のオルドビス紀の地層からも発見され、約2億年前から殆ど姿が変わっていないため、「生きている化石」と呼ばれます。Tachypleus属(カブトガニ tridentatus、ミナミカブトガニ gigas、マルオカブトガニ rotundicauda)とLimulus 属(アメリカカブトガニpolyphemus)の二属四種が残っています。
日本では岡山以西の瀬戸内海から北九州沿岸に生息し、特別天然記念物に指定されています。東シナ海と北アメリカの東海岸にも生息し、東アジアでは食用にする地域もあります。幼生は数mmですが、脱皮を繰り返して成長し、50-60cm(最大記録は79.5cm、体重5kg)になります。メスの後ろにオスがくっついて歩く行動(抱合)がみられます。
猟師の網にかかっては甲羅の棘で網を破ってしまうため、嫌われ、昔は浜辺に裏返して放置されるものが沢山いました(起き上がれずに干からびてしまうのです)。戦時中、食用にされたこともありましたが、身が少なく、あまり美味しくなかったそうです(中国では、卵の詰まる時期のメスを食べます)。沿岸開発や水質汚染のため、絶滅の危機に瀕し、現在では保護されています。
岡山県笠岡市には「笠岡市立カブトガニ博物館」があり、地元では「どんがめ饅頭」が売られています(カブトガニ型をして、餡のたっぷり詰まったお饅頭です)。