■吉備津神社 (岡山県岡山市吉備津)
<主祭神> 大吉備津彦命(オオキビツヒコノミコト)、若日子建吉備津日子命、吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等
<由緒>
第十代崇神天皇は、地方を平定するため、東海・北陸・丹波・西海の四道に『四道将軍』を派遣しました。西海(山陽道)に派遣された五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト、後の吉備津彦命)は、第七代孝霊天皇の皇子です。
当時、吉備には、温羅(うら)と呼ばれる鬼が住んでいました。命(ミコト)と異母弟・若日子建吉備津日子命は、苦戦の末にこれを倒しました(→鬼退治伝説)。その後、命は、崇神紀六十年に出雲の振根(ふるね)を倒し、吉備国を統治して、二百八十一歳で亡くなったといわれています。
神社は、若日子建吉備津日子命らが建てたとも、吉備津彦命の五世孫の加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)が、祖神として命を祀ったとも。仁徳天皇がこの地に行幸した際に命の功績を聞き、建てたのだとも伝えられています。
現在の比翼入母屋造り(吉備津造り)の本殿は、拝殿とともに応永三十二年〈1425年)に建築され、国宝に指定されています。延文二年(1357年)に再建された南随神門と、天文十二年〈1543年)再建の北随神門は、国の重要文化財。鳴釜神事の行われる御釜殿は、慶長十七年〈1612年)の建築で、県重要文化財に指定されています。
天慶三年(940年)に、神社は一品の神階(最高位)とされました。(近所に吉備津彦神社があり、こちらも主祭神は大吉備津彦命ですが、別の神社です。)
<鬼退治伝説>
『吉備津宮縁起』などによると、以下のような内容です(概略)。
むかし、吉備の国に、百済の王子で温羅(うら)という者がやってきた。吉備冠者(きびのかじゃ)とも呼ばれ、目は爛々と輝き、髪は赤く、身長は一丈四尺(四メートル)もあり、性格は凶悪であった。新山(総社市)に鬼の城(きのじょう)を築いて人々を苦しめたため、朝廷は、五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)を派遣した。
命は吉備の中山に陣を敷いて温羅と戦ったが、命が矢を射ると、温羅は石を投げてこれを落としてしまった。そこで命が一度に二本の矢を射たところ、一本の矢は石に落とされたが、もう一本は温羅の左目に突き刺さった。傷ついた温羅は雉に姿を変えて山に逃げ込み、命は鷹となって追いかけた。温羅の左目から流れ出た血は、血吸川になった。命に捕まりそうになった温羅は、今度は鯉になってその川に逃げ込んだ。命は鵜に変身して、やっと温羅を捕まえることが出来た。命に降参した温羅は、自分の名を命に献上し、以後、命は吉備津彦命と名乗るようになった。
温羅は、首だけになっても唸り続けた。命は犬に齧らせて骨にしたが、それでも首は唸り続けた。ある日、命の夢に温羅が現れ、「我が妻・阿曽姫(アソメ)に、命の御饌を炊かせて下さい。世の中に幸いあれば、釜を裕に鳴らし、禍があれば荒らかに鳴らしましょう。」と告げた。命がその通りにしたところ、首は唸るのを止めたという(→鳴釜神事の由来)。
現在も、神社では吉凶を占う鳴釜神事が行われています。命の矢と温羅の石がぶつかって落ちた処には矢喰宮があり、その傍の川を血吸川といいます。命が鯉となった温羅を捕まえた所には鯉喰神社があり、他にも、この伝説に関連した地名が沢山あります。
民話『桃太郎』は、この伝説が起源だと言われていますが、中国文化(道教)の影響が強い話です。
■温羅と、鬼の城
上述の伝説は、大和朝廷が地方勢力を併合していく過程で生じた侵略戦争を美化した話ではないかと言われています。
また、温羅は百済から製鉄技術をもってやってきた技術者集団(阿曽氏)の長であり、吉備国内で彼等と農耕民に争いが生じた際、大和朝廷が介入して、この地の王権を手に入れた過程を表しているのではないか、という説もあります。
一方、吉備中地域にいた上道臣氏の勢力が、東部にいた勢力(下道臣・笠臣氏)を追い出して地方全体を統一した、弥生時代末期の吉備王国創建史を土台にしているのではないか、という説もあり(しかし、『古事記』によると、上道臣氏は大吉備津彦命の子孫。下道臣・笠臣氏は若日子建吉備津日子命の子孫ということになっています)、研究が行われています。
<鬼の城(きのじょう)>
温羅の居城であったと伝えられる遺跡です。地名も、鬼退治伝説に由来しています。
標高400mほどの岩山に築かれた山城で、石垣や貯水池、排水施設などを持ち、朝鮮の築城方式と似ています。
しかし、これは、百済を支配していた大和朝廷が、白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に破れ、その報復を恐れて七世紀後半に西日本各地に築いた山城の一つではないかと言われています。吉備津彦命が温羅を討伐した第十代崇神天皇の時代は、三~四世紀と推定され、白村江の戦い(第三十七代斉明・第三十八代天智)とは、一致していません。後世の人が混同したものと思われます。
(本作品は、上述の複数の伝説や学説・遺跡資料に基づく創作です。ウラとイサセリヒコとアソメが親しかったという歴史的根拠は全くなく、作者の勝手な想像です……。)