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バリューゾーンの白昼夢

 最近、家族で旅行にいった時、偶然入った辺鄙な場所にある道の駅で流行りの歌を流すラジオが安置されていて、聴いてみるとYOASOBIの『アイドル』を流していた。
家族でトイレを済ませるために寄った道の駅、それも辺鄙な分かりやすい場所にはないようなところで流行りの歌が流れていることの不自然さ・気持ち悪さを感じてしまう。
 小学生から高校生ぐらいの頃には、自分たちが聴いている音楽と世間の流行の差異に違和感を覚え、世間ではサザンオールスターズや浜崎あゆみが流れている中で、まだCeVIOもなく、ボカロと言えば初音ミクに鏡音リン・レンで、結局そうは言うもののボカロの曲は大して聴いておらず、専らKOTOKOや川田まみの曲を聴いていて、高校時代にはfripSideが『とある科学の超電磁砲』の主題歌を担当したと知った時には、『彼女たちの流儀』のfripSideがよくまああそこまで出世したものだな、と思ったのをよく覚えている。
 現代はまさに自分たち……つまり、私と同じかそのちょっと下ぐらいまでがコンテンツのバリューゾーンで、流行するものが大抵自分自身の位置に近いものであるのが昨今の情勢であって、これは端的に言えば我々の世代が今労働し収入を持っているゾーンであるからこそ、世間はある程度我々に合わせて動いてくれるので、実際創作をやっていればどの層に向けて発信するか? という視点は欠かせない以上、確かにある程度のマスのそのマスの質というのは人数以上に資本力だよな、とも思う反面、十代のうちにはなかった「世間と自己との一致」感覚というのがこの歳になって生じてくると、今度は”置き去り”にされる瞬間が怖くなる。
小さな頃には、毎週に一回は演歌が流れるTV番組があって、こんなのを流したって仕方ないじゃないか……と思っていたものだが、今ではこの演歌もフォークとかあのへんの年代に下がってきて、きっと私が老人になった頃には、YOASOBIの『アイドル』とか『強風オールバック』とか『過去を喰らう』とか『フォニィ』とかをカバーする歌手が出てきて、きっと今の私たちには想像もつかない何か音楽が生まれているのかもしれないし、演歌みたいな世界観に回帰しているのがその時の流行りなのかもしれない。分からないことは――分からない。しかし、けれども世間と資本主義とが人々に、かつて自身がターゲットとされるマスであった時代。『バリューゾーンの白昼夢』を見せられた時代を作るというのは何か怖いものがあって、私は本当に素直にコンテンツを受容するべきなのか、と悩んでしまう側面が出てくる。

今月中に『無名』を終わらせて、同人誌の小説を書いて、後は新しいカクヨム連載を始めたい。目標は目標。言うだけならタダだが責任が伴う。ではまた来月に。

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