僕は運動音痴で、物事のタイミングを取ることができない。
だから運動にのめり込むことができず、ただただ弄られるばかりだった。
そんな自分が情けなく口惜しかったが、力の差には抵抗できなかった。
そんな僕が建築現場の荷運びの仕事を選んだとき、二十キロのボルトの束を持ち上げられなかった。
そして精進は続き、いつしか吉○石膏の十二ミリ厚のボードを六枚同時に移動させられるようになった。
セメント袋なら二袋同時に階段移動できたし、平行移動なら、一袋持っている仲間達と同じ歩調で歩けた。
いつしか、飯場で着替えていると、老巧夫から「ボクサーみたいな体してんな」と声をかけられ、誰のことだか一瞬分からなかった。
今でも、僕は物事のタイミングを取ることができない。
だからスポーツと呼ばれるなにかに混ざるはずがないし、混ざれば決定的な穴となる。
そんな僕だから、舞踊のなんたるかを知らない。
ただ、日本人ダンサーと欧州人ダンサーのバレエの違いなら見分けることができる。
彼らは、自然とその指先に成る。
我らは、無理してその指先を象る。
無理したものは、自然と成るものと違い、硬直して、こわばって見える。
https://www.youtube.com/shorts/gyj59vJ_lH4 だから、この元ダンサーの指先には、日本人がどれだけ精進しても、辿り着けない境地があると知ることができる。
どんなに苦心しても辿り着けない境地がある。
そして辿り着けない境地だからこそ、追い求めるだけの価値がある。
不完全でもいいではないか。
それが、日本人を日本人たらしめているのなら。