こら、あかん……(その一)

 「神奈川県の女性は「既に差別はある」とした上で、「私たちは理解よりも、人として尊重してほしい。差別禁止法を制定し、全ての生命が大切と国に宣言してほしい」と述べた。(2/26(日) 21:38配信:共同通信」



 は~ぁ、なんだかな。

 何度か、何度も語ってきたことだが、「人は正義を背負った瞬間から、どんな残虐なことでもできる」

 正義を背負った人の言うことは、文法上は正しくても、言行不一致だったり、極端から極端に走ったり、居丈高だったり、感情をコントロールできなくなることから、直ぐにわかる。

 もちろん僕だって「僕なりの倫理観」という、一見他人様には理解不能な考えに基づき行動や主張をすることが無いわけではない。

 でも、正義の元に吐かれた言葉には、敏感になる。

 何故なら「人は正義を背負った瞬間から、倫理を省みず行動する」ことを知っているからだ。

 共同通信とは、米進駐軍によって展開されたWGIPに乗っ取り、かつ共産主義というカルト国家と連帯した活動方針を元に、日本の国体を脅かし、かつ「新聞社の新聞社」として、大手新聞はおろか、全国各地の(記者の足りない全ての)新聞社に記事どころか、社説の下書きまで提供する通信社だ

 共同通信新聞とか、共同通信テレビとかが無くてもいつまでも活動を続けられているのは、対消費者向けのビジネスではなく、対企業(新聞社)向けにビジネスをしているからだ。

 だから、「共同通信」の記事というだけで、その記事の趣旨の反対を選択することが、良識として望ましいといえる。

 「私たちは理解よりも、人として尊重してほしい。差別禁止法を制定し、全ての生命が大切と国に宣言してほしい」とはいうが、さて具体的に、誰がどんなセクシャリティ自認の元、いかなる行為をいつどこで行った結果、誰からどのような態度、言動、行動、仕打ちをされたと感じて、その感覚のどの部分をもって「差別」だととらえ、かつどのような態度の改変を求めるのかを詳らかにしてほしい。

 そもそも「神奈川県の女性」なる人物は実在するのか? 共同通信の中の共同幻想ではないことを明かすことはできるのか?

 「できなかったら妄想だ」とは言わないよ。

 そんな言葉を吐いたら、森友と会ったこともない安倍晋三元総理大臣閣下に悪魔の証明を迫り続け(つまり「私は基礎的な論理すら理解できない痴漢(ルーピー)です」といいつづけ)その上で国会の審議という貴重な時間を台無しにする事で内外への政策を遅らせ、結果弱者の住みにくい国に誘導した野党議員と同じ穴の狢になるからね。



 それにしても「理解よりも、人として尊重してほしい」とはどう解釈したら良いのかね?

 僕が解釈するにおいては「セクシャル・マイノリティとして生まれてきたが故に社会から与えられてきた苦痛は耐え難く、所詮ノーマルには理解なんてできないだろうし、理解しようだなんて考え方自体無礼千万、当事者の苦痛は俄には計りがたく、寄り添おうなどと考えることすらおこがましい。
 ただおとなしく崇め奉るが良い」
と、言うことなのかな? と思う。

 それって共○主義者やオ○ムなどのカルトが辿ってきた道じゃん。

 成田闘争然り、沖縄の座り込み然り、その「閉ざされた正義のなかで」社会の常道を部分的に壊し、あるいは国家の大きな戦略であるインフラ整備をさまたげ、結果として市民から見たら、その行為そのものが野蛮な思想に基づいた侵略行為そのものだったじゃないか。



 「理解よりも、人として尊重してほしい」



 眺めれば眺めるほど、意味がわからない。



 たとえば、だ、理解する場合の課程として、

 性的少数者が「自分自身」としてリラックスできない状態での社会生活を強いられていることを知って欲しい。

 そして性的少数者はどんなことをどのように悩んでいるのかについて耳を傾けて欲しい。

 そして性的少数者は「特殊な性癖」の人とは違い、他人や弱者、無力な少年少女に犠牲を強いる意図はなく、ただ性的にノーマルな人々と同じように暮らしたいと願っていることを想像してみて欲しい。

 その上で、生まれながらにして人々が平等に持つ基本的人権として、「何か後ろ暗いことのようにこそこそと自分のセクシャリティを隠して隠して隠して隠し続ける生き方」ではなく、「少数ながらも自然体としてあり得る生き方」の一つとして受け止めて欲しい。



 という、ある種全く理解されない生き方に寄り添って欲しいという願いを込めて「理解して欲しい」なら、まだ、わかる。



 「理解よりも、人として尊重してほしい」



 ?? はあ?

 歩み寄りなんて要らない、ただ崇め奉れ?

 バカなの?

 そんなにバカなの?

 本当に神奈川県にそんなバカなセクシャルマイノリティの女性って存在するのか?

 ああ、でも、「女性」という事ならあり得るか。

 「女性」は何時の次代も、自分自身で描いた正義に溺れて、「男女差別撤廃」されてもまだ求めて、女性優遇社会になってもまだ満足せず、「女性の権利を、女性の権利を」と求めて飽くことを知らない。

 本当の「女性(レディ)」である淑女はそんなこと求めない。

 きちんと自分で自分の身の回りの住環境を整える。

 だからそんなこと求めない。



 尤も、そんな賢い女性は、いや、そのような賢さを持つ人は男性の中にもごく一握りしかいないし、僕はそこにカテゴライズされないのはわかっている。



 そもそも、僕は女性同士の間に「恋愛」の形の「愛情」が生まれることは、「多様な生き方が認められる社会」ではないとしても、自然な「愛情」の形の一つとして現実的にあり得ると思い込んでいるし、

 どちらかといえばそれは、優しさと慈愛に満ちた尊い関係性だと思うし、

 そういう関係性を描いた漫画作品やアニメ作品を、本当に大事な作品群だと思っている。



 けど、



 百合ジャンルの漫画類は全てデータの中で保管しており、物理的な書籍としては保有していない。

 そりゃそうだ。

 女性同士の恋愛というだけで、毛嫌いする女性がいることを知っている。

 妻は僕が百合ジャンルの漫画を嗜好することを知ったとしても、一番柔らかい対応で呆れの感情を抱くに止まるかも知れないが、思春期真っ盛りの長男や、思春期突入の一歩向こうを行く長女は、見下げた目線で「キモ」といったきりこちらの話しを聞いてくれなくなるかも知れない。

 それは? うちの子供達が? 差別主義者だからか?

 子供達の成長を見守ってきた父親の身分に立って断固としていいたい。

 「家の子は差別主義者ではない」と。

 家の子の感性として「キモい」ものは「キモい」んだと。

 そしてそれはお天道様に向かって真っ直ぐにいえる、何一つ間違いのない、個人としての感性だと。



 日本国憲法第十四条にはこうある。

 第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。



 同性愛者やMtoF、FtoMの方々が、たとえばそのセクシャルマイノリティが故に集団で暴行にあったとか、同好の士が集まるお店やイベント会場が悪漢に襲われて、台無しになったり閉店せざるを得なくなったなんて話し聞いたことがない。

 上にも書いたけど、さて具体的に、誰がどんなセクシャリティ自認の元、いかなる行為をいつどこで行った結果、誰からどのような態度、言動、行動、仕打ちをされたと感じて、その感覚のどの部分をもって「差別」だととらえ、かつどのような対応を求めるのかを詳らかにしてほしい。



 それも無しに一足飛びに「差別禁止法」?



 それは平等ではなく特権だし利権だよ。

 僕は極若い時に法曹界の端くれにいたことがある。

 そのころ「福○瑞○」はまだ弁護士で、「人権派」としてすでに名を馳せていた。

 僕の使えていた弁護士が、とある刑事事件の弁護団の一人として取り組んでいた事件があった。

 その弁護団の一人として○島瑞○もいた。

 その弁護団は被告人の無罪を勝ち取った。

 そして無罪判決が下った事を祝してパーティを開いた。

 主催したのが誰だったかは、ここに明確に書かなくても伝わるだろう。

 僕の使えていた弁護士は、そのパーティに出席する前、なんだかなあという風にこう呟いた「こっち(弁護側)から見ても間違いなくヤってんだよなあ。
 警察の証拠固めが甘く、検察の主張が強引だったから勝ったようなもんだ」と。

 弁護側から見ても有罪に値する行為を行ったと判断すること吝かではないのに、警察検察の論理の穴を突き、無罪判決が下れば宴を行う。

 僕が使えていた弁護士は物腰の柔らかい大人で、まだひねくれ者だった僕は、心の中で「ふーん」とは思ったものの、それきりだった。

 被告人の有罪を確信しながらも、国家権力の奢った穴を突き、結果被告人に無罪判決をもたらせれば、祝宴を上げるという精神構造が如何に正義に歪んだものであるかを判断するに至ったのは、たった一つのちっぽけな家庭を満足させられないなりになんとか維持しようと足掻く中で、「もし、妻が、この子達が事件の被害者となったら、果たして俺は被告人はおろかその弁護団をも許せようか」とようやく想像することができ、昔から知っていたことではあるが、「人は正義を背負った瞬間から、どんな残虐なことでもできる」という考え方の実例をまざまざと見ていたことに気がついたからだ。

 乗り気で祝宴に向かったわけでは決してない分、僕の使えた弁護士は、物腰が柔らかいだけではなく、理性を持った一人の大人だったんだと思った。

 無学な僕が、少しでも法律運用の実態に触れることができたのは、その弁護士との縁によってだった。

 だから僕は、僕がかつて使えた弁護士のことを、「大人の良識がある人」と感じていても、決して「正義に溺れた人」とは思わない。

 でも、「正義に囚われた人」には、目を背けたくなるほど醜い何かが憑く。



 「性的少数者に対する差別禁止法」



 なんてできたら、その法を盾に、一体どれだけのセクシャルマイノリティが「正義」を振りかざし、フツーの人の生活を破壊していくのだろう。

 ちなみに僕は、決定的に「空気」を読めない。

 日本人は大人になったら「空気を読む」のは基礎的を通り越して根源的マナーであり、「空気を読めない人間」は自然とその「空気」から廃絶される。

 それで、何度悔しい思いを重ねてきたことか。

 それでも僕は「空気を読めない者に対する差別禁止法」なんて望まない。

 日本人社会において、「空気を読む」という過ごし方は伝統的価値観だし、日本人として空気を読めないのは致命的欠陥だと思うし、空気を読める人は、時にずるく、時に賢く、時に物腰良く、まさにスマートを地でいく生き方をしていて、その生き様が(例え僕の障害になったとしても)、日本人として美しいと思うからだ。

 それに、「空気を読めない者に対する差別禁止法」なんて用意したら、むしろ空気を読むに長けた悪漢によって、自在に社会はコントロールされ、町中が「小カルト」で埋め尽くされ、そして「カルト」同士の諍いが起こり、人が作った「人の世」はなくなり、人でなしのはびこる「人でなしの世」が訪れるだろう。



 そもそも、日本ほど平等が行き届いた国があるか?

 こんな動画がある。

 https://www.youtube.com/shorts/eYgwQcLI1qM

 あ、ごめん、同じ「アカ」だから間違ったみたいだ、こんな動画がある。

 https://www.youtube.com/shorts/h0ZTu5C042U

 凄いよな「共産主義宗主国」の後継である国家「ロシア」では今や、「共産主義が違法」になっている。

 というより、資本主義国では共産党が合法の国のほうが「あり得ない」らしい。

 アメリカでも戦後一九五〇年代に非合法化され、一九九一年頃に非合法思想であるという立場から解放されたらしい。

 昔「呉智英」がいっていたことだが、「宗教を否定するのは、必ず他の宗教である。
 
 宗教は自らの教義以外の宗教を否定し、迫害する。
 
 共産主義は数ある思想、主義信条の中で唯一宗教を否定し弾圧する。
 
 なぜか?
 
 それは共産主義という思想が一種のカルト宗教であることを意味する」と。

 いわれてみればモアの「ユートピア」を読んだ時、何ともいえないうさんくささというか甘ったれた夢見感を感じた。

 これは「思想体系」というジャンルの全くの門外漢としての「僕の感覚」でしかないのだが、救世主教と共産主義はユートピアという夢を橋渡しに綺麗につながると思っている。

 斯くも見事な危険思想である共産主義者ですら、日本人は社会に受け止め、議員を何人も国会に送り込んでいる。



 そんな現代日本で、これまでにない新しい考え方を保護するとして「差別禁止法」を作れば、間違いなく利権の温床となる。



 そう、「新しい差別禁止」というのはそのまま「新しい利権」「新しい特権」という意味なのだ。



 同和解放運動は、特定地域の出身者でないと運動への参加を認めないという。

 世の中には色んな虐げられた生い立ち、過去、来歴がある。

 僕にも、人には余りあからさまにできない経歴や、生まれつき備わった奇妙な特徴があったりする。

 ※とはいえ、それが原因で苦境に立たされたことはそう多くはないのだが。

 でも、そんな生い立ちや身体的特徴を持ってして、自分の周りの社会の中で苦しい思いをして「これは差別だ、解放されたい」と思う人であったとしても「解同」は運動に参加もさせてくれない、なんの助成もくれない。

 「なんだ、同和部落解放同盟は差別団体じゃないか」

 という声もあるという。



 「被差別」という印籠がどれだけの富をもたらすかご存じだろうか。

 松○龍、という名前をwikipediaで検索するといい。

 3.11の被災地の復興担当大臣に任命されたが、被災地の知事にも暴言を吐き散らかし、しかもそれを目の当たりにしていた記者達に向かって「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん、いいですか、『書いたらもうその社は終わり』だから」

 と、反社会勢力同然の恫喝をした。

 地元報道機関の記者は頭に来て、即座のその言行を詳しく記事にした。

 すると、他の報道機関も報道を始め、瞬く間に全国区の話題となり、たしかなんの成果もないまま更迭されたと思う。



 さてこの松○氏、父や祖父が、その道では名を残した部落解放運動の運動家で、つまりご本人も由緒正しい部落のご血統である。

 しかし部落民と聞いて、慎ましやかな苦しい暮らしをしていると想像したら、それは全くの見当違いであり、「部落という利権」「部落という特権」を全く理解していないことになる。

 ひとつ、wikipediaから引用しよう。

 「福岡空港は、空港用地の地権者である松本組を含む地主への地代総額が年間80億円にも達し、相場を度外視した地代のために毎年地代分の赤字を計上しているという。しかも「同和問題の解消に資するため」に固定資産税の課税は免除されてきた[72]。」

 これ、知ってました?

 上記の舌禍事件の際は、追報で、少しばかり触れた記事が出たが、すぐに収まった。



 いいですか、この記事を読んでくださっている皆さん。

 『福岡空港は』

 『松本組を含む地主への』
 
 『地代総額が年間80億円にも達し』
 
 『相場を度外視した地代』
 
 『毎年地代分の赤字を計上』
 
 『しかも「同和問題の解消に資するため」に』
 
 『固定資産税の課税は免除されてきた』

 んですよ。
 
 平たくいって「ずるい」と思いません?



 『相場を度外視した地代』

 『固定資産税の課税は免除されてきた』
 
 『年間80億円』



 これを特権といわずに何が「特権」なんでしょう。
 
 世の中には、お爺さまやお父様が大事にしてきたということで、なんの商業的価値も生み出さない山などを相続し、固定資産税だけで、毎年結構な額を負担されている家庭もいらっしゃると思う。
 
 そして、「この負担だけを今の子供達に残すなら、私の代で山は手放すか」「でも、ご先祖様の棲まう山だし」などとお悩みの方も大勢、というよりほぼ全員に近い割合で、そのような悩みを抱えているに至るだろう。
 
 でも、部落解放同盟は、そういった家庭になんの支援もしてくれない。
 
 あくまで「部落民」と名乗っている連中だけに、都合のいい要求を行政に、企業に、裏口からの面談で要望し、表側では大人しく暮らしている。
 
 
 
 もう一度出すけど、日本国憲法第十四条には、こう定義されている。
 
  「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

 そして更に、第十四条第二項にはこうも書いてある。
 
 「2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」
 
 いやいや、出生した(と自己申告された)門地により、『相場を度外視した地代』『年間80億円』を受け取っている人がいるじゃないですか。
 
 その特権はいかなる法に定義されて実行されているんですか?
 
 かりに法に定義されて実行されているのだとしても、その特権は世襲されており、それは実質の貴族制度で、その法は憲法違反だし『固定資産税の課税は免除されてきた』なんてまさに貴族特権ですよ。
 
 
 
 そりゃあね、たとえば戦後臣籍降下した元皇族十数家系の中には、比較的経済的な安定を手にした家柄もあれば、まるっきり市民同様に住宅ローンの返済に苦心している家柄、家庭もあるだろう。
 
 元皇族ですらそうなんですから、部落出身者がみな裕福とはいわない。

 ただ、『固定資産税の課税は免除されてきた』理由が『しかも「同和問題の解消に資するため」に』であれば、はっきり断言できる。
 
 
 
 部落出身者は、憲法で禁じられている制度上の貴族に当たり、日本国憲法第十二条にもあるように
 
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
 
 のだから、国民総出で、この特権階級を解消させなければならないよ。
 
 そしてこれは差別じゃない。
 
 一君万民の名の下、正されなければならない社会的不平等の是正だ。
 
 
 
 これが、僕が、「『新しい差別禁止』というのはそのまま『新しい利権』『新しい特権』という意味」といった実例だ。
 
 
 
 「人は正義を背負った瞬間から、どんな残虐なことでもできる」
 
 いや、正義を負わなくとも、その状況に立たされるだけで残虐なことができる。
 
 こんな動画があった。
 
 https://www.youtube.com/shorts/8jguiBXJAxs
 
 正義ですらない「役割」を、行動心理学の検証上与えられただけで、なんの落ち度もない人が、なんの落ち度もない人に酷い行いをすることができるようになる。
 
 ましてや「正義」の後ろ盾を得たらどうなるか。
 
 社会は歪み、その新たな歪みを整えようとして、さらなる歪みを抱え、やがては秩序が失われよう。
 
 
 
 実際、すでに女性陣から、「MtFの人かわからないが、女性用の公衆トイレで、男性の体つきの人物と遭遇してしまい、パニックになった。
 
 すごい怖い体験だった」
 
 という声が上がっている。
 
 『女性』はいいよね、いつだって「弱者」の立場として自分たちの主張をマスコミに取り上げられてもらえる。
 
 MtFだろうとなんだろうと、『男』は何時も「まず加害者側の可能性」から先に検証されて、その可能性が全く無いと判定された場合のみ、その声を社会に広められる。
 
 僕の身の回りにMtFの人はいない。
 
 けれども確定的にいうよ。
 
 もし、今時分、女性が女性用の公共のトイレで男性の体格の人と出会ったら、八〇パーセントか、九〇パーセント以上の確率で、そいつはMtFでもなんでもない、ただの変態だ。
 
 本当にMtFで悩んで居る人は、華奢な体格に恵まれた人は女装や化粧を始め、その姿で外出するだけで、たとえば街中でキャバクラのスタッフ募集のティッシュを配られたりして、それだけで、ふわっ、とした安らぎにも高揚にも近い、精神的な安堵感を得て、いつかは性転換手術を、という道を見据えたりする。
 
 体格に恵まれず、がっしりとした肩幅を持つMtFの人は、服装にせめて中性的よりやや可愛い要素のものを身につけつつ、余り体型を主張しにくいゆったりとしたものを選ぶ事で少しでも心と体の不一致を和らげようとする。
 
 でも、男性用トイレを選ぶ位のわきまえは持っている。
 
 「私はMtFだから、服装は男性的のままでも、トイレは女子用を使って問題ない」なんて考える人いない。
 
 そんな風に状況に応じて切り替えられるようなら、そもそもセクシャルマイノリティの悩み、なんてない。
 
 
 
 女性用トイレで男性の姿の人と鉢合わせるのは怖いと思う全ての女性は「アライ」の看板を取り下げ、「私はセクシャルマイノリティの心情を受け入れることができません」と世間に頭を下げるがよい。
 
 その上で万が一女性用トイレで男性の姿の人と鉢合わせたときは、まず写真を一枚撮り、即座に警察に通報するがよい。
 
 もしその男性がMtFだったら、万が一の時に備えて、MtFデあることを公的に理解してもらうための何かを所持した上で警察に説明するだろうし、そういった証明ができないのであれば、公共の公序良俗を乱すものとして逮捕されるのが正道だ。
 
 所詮女性には「男性の体として生まれたが、女性としての姿形を得たい」と願うMtFのささやかな想いに寄り添うことはできない。

 できもしないのに正義に酔って「私はアライです」と軽々に口にしているくせに、女子トイレで男性と鉢合わせたら怖いと思うのは、それは「無意識から生まれる差別」こと「区別」だよ。
 
 「区別」を前提とした凄し方、生き方、社会体制、秩序社会の中で安全に生きていきたいというなら、「アライです」という言葉は絶対に使ってはいけない。
 
 なぜならあなたは結局セクシャルマイノリティの狂おしいほどの気持を、理解して、許容してあげることが生理的に不可能だからだ。
 
 男性の姿のまま女性用トイレに出入りする行為は、早々に社会問題化して取り締まらないと、極近い将来、強姦事件や強姦致死事件を多発させるよ。
 
 あなたがターゲットになるかも知れないし、あなたの幼い娘がターゲットになるかも知れないし、あなたの母親がターゲットになるかも知れない。
 
 
 
 セクシャルマイノリティの差別禁止とはそういうことだよ。
 
 
 
 単なる社会秩序の破壊行為でしかなく、その時被害を被るのはか弱き女性、あなただよ。
 
(その二につづく)

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