「皇室のストックがこの先の時代にもあるよ」
というひとことを伝えるために、昨日の有給を持ってしても足らず、
今日の午前中をも蝕んでやんの。
だらだら長文を書き連ねるだけなら、子供にもできるんだぞ。
と、よくよく自分に言い含めたい。
日本はいいよね、本当に女性に優しい。
未だ、「男尊女卑の廃止」「性差の不平等を正す」とか息向いている向きもあるけど、レディースデイとか女性専用車両とか、女性を甘やかす制度や、女性を守る制度はあっても、男性向けのそれはない。
そして、スポーツの国際大会では、男性選手より、女性選手のメダル獲得が大きく宣伝される。
実際、男子が未だ金メダルを手中にしていない競技で、女子が金メダルに輝いている種目が幾つもある。
なぜか。
スポーツ及び音楽などの技術を要する文化においては、ひとえに練習量の差が成績に表れる。
古典音楽の盛んな欧州で、「どうして一握りの天才演奏家が生まれるのか」を必死に研究したことがある。
何か決定的な要因があれば、その要因を持つ子に英才教育を施して、立派な音楽文化の継承者を育てよう、という考えに基づいてだ。
そして研究機関の出した答えは一つ「ひとえに練習量の差が、天才を天才たらしめる」と。
確か中米のどこかの国家での話しだったと記憶しているが、女子マラソンで圧倒的な成績を収めた女子がいた。
関係者はこぞって「国家代表の一人に」と口説いたが、彼女は「家事があるので無理です」と答えた。
彼女は、家に水を運ぶために、起伏の激しい山岳地帯の道を、毎日何往復も走っていたとか何とか。
そして自分が家を出てしまうと、家族に水を運ぶ者がいなくなるからと辞退したという。
どうして、日本の女子アスリートが同種目の男子選手より好成績を収めるか、それは、他国の女子選手との練習量の差にある。
女子がこれほどのびのびとスポーツに向き合える国なんてそうそうない。
というよりほとんどの他国では、女子は家事を担う立派な労働力として、家庭の暮らしに組み込まれている。
当然、スポーツに打ち込む時間なんてない。
だから強力な選手がなかなか出てこない。
しかし日本では、男女平等の美辞麗句のもと、女子でも、男子同様に練習の時間を確保するための体制が整っている。
日本人のメダリストに女子が多いのは、日本人の遺伝子に、女子をより強く完成させる要因があるからか?
違う。
すでに、他国と比べて十分過ぎるほどの男女平等が行き渡っており、相対的に他国の選手より練習に割ける時間が多いからだ。
そもそも、女子科目なんて他国では、「エキシビション」の一つに過ぎない。
たまたま自国の選手が勝っても「へえ、やるね」のひとことでその話題は終わり。
それより自国の男性選手が、如何にその競技を戦ったかの話題に花が咲く。
女子選手の活躍を、男子選手の活躍を讃えるのと同等に、いや、それ以上の興奮を持って取り上げるなんて日本のマスコミくらいらしい。
試合前の練習にもさがあり、メダル獲得した場合の扱いも丁重に施されば、それはやる気を後支えするのに十分な根拠となり得る。
こんなにも、女性の権利は確保され、維持され、優遇されている。
女性に生まれついたがために優遇されているといえば、小室眞子が好例だ。
皇室典範には、一定の年齢を重ねた皇族が、その意思を示し、皇室会議で認められることを条件に、皇族から離れる権利が認められている。
ただし天皇と皇太子に限っては、自らの意志で臣籍降下することは認められていない。
天皇とその嫡子、あるいは嫡孫には、「皇統を何が何でも継ぐ」という道しか残されていない。
それに比べて女子は、例え内親王といえども、相手の家柄も考えずに自由に婚姻し、皇籍を離れる事が許されている。
男系男子の後継者がギリギリ一本の糸でつながっている現皇室の状況を鑑みれば、万が一の時のために、旧宮家の男子のもとに嫁いでいくことが望ましいし、限りなく義務に近い選択肢といえる。
しかし、小室眞子にとってはそんな「お家の事情など知りませーん」ということなのだろう。
流石にね、皇室に割かれる税金がそう大して大きくもなく、国家元首及びその一族として品のある生活を維持するためにはふさわしい金額だと思っている僕でもね、未来の天皇の姉としての事実がありながら、国内ではなく海外に居をかまえる厚かましさには閉口するものがあります。
海外で生活する分、その居住先国家にも国家としての品位もあることから、費用を掛けてでも警護する必用を強要し、日本人が警護するとしても、他国に滞在するために、通常以上の金銭的負担を掛けているのは想像に難くない。
それでも、仮に多くの人がその尻軽さに眉をひそめようと、誰一人彼女の選択を止められるものはいない。
なぜか。
それは彼女が一般市民であり、一般市民である以上、貧乏暮らしをする可能性も含めて、その行動と選択の自由は、他の国民同様に保証されているからである。
つまり、皇室典範においても、そして現皇室のありかたとしても、彼女の嫁ぎ先を政治的な意図で決める権利はなく、ただただ本人の自由意志を尊重する姿勢しか取れないのである。
それが内親王であればこそ。
親王はそうはいかない。
嫡男、嫡孫となれば皇位継承権の二位、三位、四位をになうものであり、皇次子といえども、嫡流男子に次ぐ皇位継承者として、将来様々な想わぬコトが重なった場合の、皇太子のスペア、つまり事実上の皇位に付く可能性のある一人として、その婚姻も含めて国家行事となり、婚姻後も皇室の一員としての品位と作法が求められるものである。
皇室典範ですらその女子の自由な選択を遮ることができないんだもの、ましてや平民の世界では、女性の方が暮らしやすい社会となっても不思議ではない。
だから僕は、今の日本社会はやや女尊男卑に傾いていると思うし、男女の平等なんていうのは、女性偏重の社会の在り方を正すべき運動だと思っている。