言わぬが花、でも、アライに非ず

 私的なwebページの一角なんだから、好きなものだけ「好き」といって、嫌いなもの、苦手なものには触れないのが粋とういもの。

 言わぬが花の美徳もあるさ、ということは弁えていて、今までしれっと触れないで来たけど、大阪地裁が地裁にしては理性ある判決を下したタイミングを見て一言述べる。

 性的自認、嗜好の少数者に積極的に理解を示すスタンスとして「アライ」という言葉がある。

 私は、百合マンガがこよなく好きだ。

 同じくらいアクション少青年マンガも好きだし、サブカル、アングラも目を通している。

 女性同士の心の結びつきが尊く感じるし、その触れ合いもこの上なく美しいとすら思う。

 でも、私にとって男性同士のそれは、そのことごとくが「ぁりぇなぃ」と思う。

 私自身ストレートじゃない、ノーマルじゃない被差別的状況を抱えていて、その心の葛藤と自分自身を取り巻く社会的な役割の中で、とても不安定な私を抱えている。

 だからこそカジュアルに「アライです」なんて自己肯定できない。

 というより、ある種の無神経さ、無遠慮さがなければ、そんなポッと出の概念で自己肯定なんて簡単に出来ないものだと思う。

 アライなんて社会的スタンス、早々になくなるべきだし(あたかも営利法人にとって成長が正義であるように)、社会は人口増につながるあり方がノーマルでありストレートであり、人口減にしかならないあり方は、二人の営みの上に、人口増に寄与する取り組みをして、初めて「さて、私たちのあり方を良しとみていただけますか」といえると思う。

 それは税制かもしれない、児童手当という行政の取り組みは将来の日本社会を支えるという、限り無く義務に近い献身に対する、行政の苦慮した一つの答えだと思うし、第三子、第四子に対する金銭的支援はもっともっと厚くていいと思う。

 結婚について、苗字をどちらかの姓に寄せてにわかには分かちがたく同棲し、体にその能力があれば、子を産み、育み、老いてなお同じ骨壺に納まることだと思う向きも多いと思う。

 でも法律的には、財産権のあり方に大きく偏る。

 いかな、イスラム教徒が土葬を尊び、火葬を酷なものに捉えようとも、豊かな石清水という資源に恵まれた日本人には、土葬は広さというわずかな不動産資源を大量に消費する事もあり、また土壌の水質も汚し、特に勝手な土葬など厳しく裁かれるべきだし、「郷に入っては郷に従え」よろしく、火の神によって俗世の肉欲を清めてもらう火葬がいやなら日本にくるべきではないと思う。

 それと同じように夫婦別姓がいいなら日本で結婚しなければいいと思う。
 日本人が日本人の秩序で育んだ、江戸から続く「女性が夜一人歩きできる社会」という安全の中に暮らしながら「伝統的な日本のあり方には従えません」と言うなら、とある文豪の作品の冒頭の言葉を捧げよう。

 「人の世を作ったのは人である。人の世が棲み辛いからといって越すところはない。
 人の世から越すならばそれは“人でなしの世”で、人でなしの世はさぞかし棲み辛かろう」

 さすが「口答え」を名乗る人は例えもうまい。

 そう、まず確かに持続可能な「人の世」「現世(うつしよ)」があって、図らずもそこから離れざるを得ない葛藤があって、「人でなしの世」「隠世(かくりよ)」に棲まわざるを得ない思いと現実の社会の狭間で揺れ動く時、初めてそこにフツーの男女の「好きだよ」を越えた分かちがたい「好きだよ」が生まれると思う。

 日本の民法は重婚を禁止している。

 にもかかわらず、時に外国人から「日本は重婚をなぜ認めているのか」という質問が寄せられることがあるそうな。

 内縁関係でも、財産分与が認められたり、婚外子と嫡出子の法定相続分が同じだったりと、「おかわいさうに」の気持から、返って法的に正当な者の権利が蝕まれている。

 憲法をたまに読んでみると、面白いことが書いてある。

 第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 ② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 非配偶者である内縁関係のものに財産分与の権利を認め、婚外子も嫡出子と同等の相続権を認めている時点で、民法は間違っているし、もし民法の法が正しいなら憲法を正さなくてはならない。

 本当は、それが一番信用ならざる無法地帯への序章なのだが、大東亜戦争敗戦後の日本では、「解釈改憲」がまかり通っている。

 解釈次第でどうとでもできるのだから、「あの国は一体何を基本法として定めているかわかったもんじゃない」と見られても仕方がない。

 だから状況にあわせて、豆に憲法を見直さなければならない。

 それが外交的な最低限の礼儀ですらある。

 なのに現文が自らの信条を表す教典となってしまっているため、動かせないままでいる。

 ばっかじゃなかろか。

 聖徳太子の(あえて、聖徳太子「の」)「和を持って尊しとなす」は話し合い至上主義を意味すると思ってる。

 まあ、それが通じるのも、日本人の間同士ではあるが。

 そして、現行憲法を変えて、現行憲法から離れて進めないのは、検討という名の自らの考察をもってして判断する事を放棄している一点で、カルト宗教の信者や現人神の統帥権にすがった戦前社会の持つ蒙昧の継承者だと思う。



 こんなこと、二度も三度もいうことではないと思う。

 それが野暮だとよく知っている。

 粗にして野にして卑であると知っている。

 そのうえで敢えて言う、私はアライではないし、アライに自ら立脚する人を信じない。

 でも、百合文学を尊いと思う文脈から(男性同士の恋路は全くのご勘弁だけど)同性婚が合憲となる未来に近づくように、そういう気持ちも込めてこれからも保守派に投票しようと思う。

 結婚なんて、諸外国の中には「財産権のあり方」でしかない国もある。

 でも、この国で同性婚を望んでいる人々の中には、同じ姓に収まることを夢見る人達もいるだろうし、それが、この国での結婚のあり方ですら有ると思っている。

 何でもいい、どちらでもいい、なんて無責任だ。

 人は「同じがいい」はずなんだ。

 約半世紀の人生の中で、進歩派、改革派、文化人は一見弱者に寄り添うようにみえて、なんとかって銀行の名前によく似た議員が、偽りの被害者役の異国のおばあさんを叱りつけて演技指導した時のように、自らの主義主張のためなら国を混乱に陥れても「優しさ」「善意」という衣を纏って世を混乱に陥れようとすることを知っているから、
 だから、ほとんど一択しかない選択肢でも、まるでバカみたいに毎度毎度同じボタンを押し続けるんだ。

 それが、この世の中を良くする唯一の道だと信じて。

 そして、同性婚が認められた場合にも、婚姻に至った二人が、子育てをする場合、それはノーマルの結婚同様に、未来の社会への寄与として、税制面での保護があるべきだと思う。

 そこまでしても、子育てをしない二人もいよう。

 ノーマルの結婚、そして同性婚にかかわらず、そういう二人はどうしても出てくる。

 その時は、少しばかり税を多く負担して貰い、その税が子育てカップルの支援に回されるのが、持続可能な社会に向けた新しい形だと思う。

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