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「あのこは貴族」のここが凄い! の巻

「あのこは貴族」を大絶賛している著名人に岡田某という人がいて、世間から問題視されているため今はYoutubeが生息地になっている。

で、この人を目にするのも嫌なのだが、「あのこは貴族」を褒めている動画があって、それを見ると「悪人がいない」点がすごい! と言っていた。

これは確かにその通りで、「鋭いご指摘……」と感じ入った次第でございます。

普通のドラマや、脚本のセオリーを想定すると、同じ慶應大学なのに「内部生(幼稚舎から大学へと進む)」と「外部生(田舎の秀才が大学から入る)」に分かれる、といった段階の次はもう「対立」「対決」のパートへと進むのではないか。

内部生は東京育ちでお上品で、気取っていて、他人を見下していて、金銭を無駄に使い、人を人とも思わない言動ばかりの、しかも容姿端麗な存在である。

一方、外部性は地方出身の素朴な努力家で、勤勉で、性格は良く、何事にも一生懸命で、他人には親切だが騙されるようなこともある、ややおっちょこちょいな愛されキャラクターで……。

と、あっという間にキャラクターの関係の相関図が浮かび上がる。

結婚の前後も同様に、

「やたらとお見合いを勧める大叔母」
「非常識な見合い相手」
「女は子供を産む機械だと言わんばかりの義母」
「妻よりも大事な事が多数ある夫」

など、待ってましたと言いたくなるような悪役がすぐにでも湧いて出てきそうなものだ。

しかし、微妙に本作ではそうならない。「なりかけて止まる」に近い状態の人がほとんどである。

私が脚本家だとしたら門脇麦と水原希子は激しく対立した挙句、パーティー会場で殴り合い、服を引き裂いて、

「この糞ビッチがー!!」

「お嬢様気取りの世間知らずがー!!」

「貧乏人は麦でも食えー!」

と罵り合い、爪で引っ掻きあい、互いに顔に唾を吐きかける場面を用意してしまう。

あるいは、葬儀の場面でレモン型の爆弾を置いて、静かに微笑みながら去ってゆくとか。

あるいは、葬儀の際に義母に拳銃を向け「弾はまだ、残っとるがよォ……」と渋く決めてみせるとか。

だんだん何を書いているのか分からなくなってきたが、「誰もが明白な悪人ではない≒人はそう簡単に悪人にはならない」というメッセージとも言えるわけで、

「普通の人でも、簡単に悪の道へと転げ落ちる」

という主張が、フィクションには多すぎるのではないか。この作品はたった一作で平凡な「人間≒悪」説に寄っかかっている凡百の作品を越えてしまっている。

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