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「道頓堀の雨に別れて以来なり」の巻

読みかけで放置していた田辺聖子の「道頓堀の雨に別れて以来なり」を少し読み返したら、生き返るような心地になった。読みかけで放置していたというのは、何しろ上中下巻で厚さが結構あるので、京極夏彦が泣いて逃げ出すみたいな長さになっているからである。

この本は副題に「川柳作家・岸本水府とその時代」とあり、つまり川柳作家たちの明治・大正・昭和を描いた群像劇なので、評伝の中に小さい評伝がいくつもあって、かつ川柳が大量に引用されているアンソロジーという側面もある。

そういった要素はもちろん面白いのだが、個人的には漢字とひらがなの書き分けをもっと柔らかい雰囲気にしたいと思っているので、そのあたりの興味もある。

田辺聖子の文章は、威張りもせずへりくだりもせず、柔軟で正確な印象を受ける。それでいて、読者を包み込むような温かさがある。

もうひとつ文章の話をすると、「私」が書いているのだから、いちいち「私は」と書かなくてもいいような気がする。しかし、文脈によって「私は」「私が」「私も」はカットしない方が良いケースも多々ある。そのあたりの匙加減も気になるところ。

とにかく久々に本を読んで「広い、大きい、豊かだ」という印象を強く感じた。中学生くらいの頃はそう感じる機会が頻繁にあったように思うが、今はむしろ「狭い、小さい、貧しい」と感じる本が増えてしまった。

しばらくこの本の中に籠っていたいほどなので、頭をリセットさせる意味でも、金土日はこの本に集中してみたい。

岸本水府の川柳はこんな感じ。



大阪はよいところなり橋の雨

友達はよいものと知る戎橋  

電柱は都へつづくなつかしさ

お土産はいらぬと母は送り出し

恋せよと薄桃色の花が咲く

汚れてはゐるが自分の枕なり

ことさらに雪は女の髪へ来る

友だちは男に限る昼の酒

寝たら牛になるならそれもよしと寝る

四十年かかつて酒は毒と知る

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