推敲とは、いわばサッカーの試合が終わった後で選手が、
「あのパスをもっと強めに蹴っていれば……」
「あそこでもう少し早めに引いていれば……」
「あのマークをもっときつめにしておけば……」
といった反省を、その場、その時点に戻ってデザインし直せるようなものだ。
将棋だって「待った」は反則である。ところが、小説の推敲とは「待った」を何回してもOKということになる。
つまり、サッカー選手にとっては自在に「時間を戻せる」ようなもの、棋士にとっては「待った」を使い放題のようなものだ。
なぜ、これほど良い条件を与えられていながら良くできないのか。もうそれは、許されるものなら(大抵は許されている)限界のそのまた限界まで推敲し、磨くべきではないのか。
とは言うものの、さすがにまる4か月も同じ作品について考えていると、限界もこのあたりかなと思えてくる。しかも、やけにピッタリと、ページの頭に「第〇章」が落ち着くようになって、内容的にも外見的にも完成が近づいた感が出てきている。
とりあえず最終的にはPDFで提出するので、いったんPDFにして、またそれを読み直している。