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「共感」と「ワンダー」の巻

磯崎憲一郎「金太郎飴」、原尞「ミステリオーソ」が図書館にあったので借りて読んだ。いずれも、エッセーその他をまとめた本で、作者の小説観を表明している。

この二冊を読んでいて、穂村弘が以前書いていた「共感」と「ワンダー」という分類を思い出した。この「共感」と「ワンダー」が混ざったような感銘が優れた小説の核(か、あるいは表面)にもあるのではないだろうか。

「ミステリオーソ」ではチャンドラーの魅力として「背が高いのね」と話しかけられた時にフィリップ・マーロウが何と応じたか、に焦点が絞られている。この部分だけでなく、あらゆる場面でのキャラクターとしての「応じ方」こそが重大なのだと。

「金太郎飴」は、いわゆるエンタメ的な「ストーリー」や「登場人物の魅力」といった部分でない、小説を読む際に生じる一行ごとの驚きや飛躍、そこで生まれる独特の何かを強調している。

これは書いている物からすると反対の小説観のようだが、どちらも実例を読むと似たようなこと、「共感とワンダーの入り混じった何か」を言っているのではないかと思った。

ある人はある感銘を「チャンドラーの文体の魅力」として認識するし、別のある人は同じようなことを「カフカだ、小島信夫だ、文学だ」と叫んでふんぞり返っている。

ごく一般的に言い直すと、小説を読んでいて、「あっ」という驚きと共に納得や了解が訪れる瞬間がある。

それを「描写」の力とする見方もあるし、「リアリティ」「説得力」「表現力」「感性」「筆力」「構成力」によるものとして理解する人もいる。それらもやはりほぼ同じ感銘(共感とワンダー)を、別の言葉で表現しようと試みているだけではないか。

SFにおける「センス・オブ・ワンダー」やミステリにおける「世界が反転するような感覚」もほぼ同様に「驚きを伴った納得、理解、共感」のようなものではないか。

そこに科学的な要素を持ち込んだり、心理的、物理的なトリックが使われたりするという違いはあるが、読者の「物の見方、捉え方、感じ方」に言葉によって揺さぶりがかけられるという点に関して大きな違いはない。

あえて違いを考えるとするなら、宇宙や人類規模のスケールの大きな話題でのワンダーと、微細な世界のワンダー、日常生活内での驚き、といった規模の違いや、上向きの仰ぎ見るようなワンダーと、足元を見下ろすような現実的なワンダーでは視線の向きが異なるとは言えそうに思う。

太宰治の「女生徒」、川端康成の「片腕」など有名な短編も「驚きつつ共感し、共感しつつ驚く」という状態が維持される。初歩的な太宰治の読者は「この人が書いているのは自分自身のことだ!」と共感しながら驚き、驚きながら共感している。

このように考えて整理すると、そこそこ優れた純文学、ミステリ、SFなどの魅力は「共感(=シンパシー)」と「ワンダー(=驚異)」で腑分けできそうに思えてきた。


(例外も思いつくがそれはまた明日)

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