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「刑事コロンボ」に関するメモの巻

・「刑事コロンボ」は倒叙ものなので、視聴者よりもコロンボの方が僅かに遅れて、犯人に気づく。そしていつのまにか、多少の優越感を持っていた視聴者を追い越すようにして真相を探り当てる。

マラソンの中継や「ウサギと亀」と違って、いつ追い抜かれたのかがはっきりしない。視聴者は「いつ、どの段階でコロンボに追い抜かれたのか分からない」「全てが終ってもその点は明確にならない」という点がよい。

人によって「いつ追い越されたか」という感覚はバラバラに分かれるだろうし、コロンボ自身が「あの時に気づいたんです」というのも「うちのカミさんが大ファンで」というのも嘘くさいし、そうした諸々が真偽不明の宙づり状態になるところがよい。


・コロンボは、現場を見て回る段階からあらぬ方向を眺める。手がかりは常に盲点となるような、見落としがちな部分にこそあるという意味のしぐさである。


・そして最初は遠慮がちに、どうでもいいような些事に関する質問を重ねる。こうした態度には遠慮と、躊躇いと、謙虚さと、悪人をじわじわ追い詰める懲罰を楽しむような残酷さが混じっている。ひと言でいうなら老獪で、遠回りこそが最短距離であるという逆説そのものだ。それが少しずつ確実に、僅かながら断定的になり、最後には断言する。そのグラデーションが良い。演じる側も演じ甲斐があるはず。

一方、犯人は勿論、嘘を抱えている。当初、巧妙に隠しきれているつもりの犯行が次第に重荷になるため、やがて焦りと自暴自棄と楽観が混じってくる。最終的には諦めと降参と、同時に重荷からの解放が合わさったような表情になる。これもやはり決まったコースとはいえ、演じる側には演じ甲斐があるだろう。


・コロンボの態度は、「初歩だよ」とワトソン君に講義するホームズとはかなり違う。コロンボが犯人の前で淡々と話し、騒ぎ立てず、何かを断言しないのは、失われた命の重さに対する敬意があるからではないか。

また、真実はそれが正しければ正しいほど、ストレートに言うべきではないという自制心が働くからで、「真相は最初から分かっていた」などと臆面もなく言えるような名探偵の若さ、未熟、傲慢さがないからだ。


・悪や、その原因となるエゴや傲慢、愚かさに対して「憎い」と感じさせるのは比較的たやすい。たとえば、冷酷な犯罪を描くことで「ひどい」「むごい」「残虐だ」と感じさせて「憎い」と思わせるような。

しかし、悪や愚かさに対して「憐れみ」まで感じさせるのは手間がかかり、難しい。そこまで行って初めて「悪を通じて人間を描いた」ことになるように思う。

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