大江健三郎はやはり(多少の無理をしてでも)読むに値する作家だなと思う。
しかし、以前読みかけてやめた「キルプの軍団」を読み直してみると、やはり様々な点で読みにくいし、変な印象を受ける。
1988年に単行本の出た「キルプの軍団」は、高校生の「僕」が語り手なので、ちょうどその頃に高校生だった自分とぴったり同世代のはずである。
しかし。
それにしては、親戚の叔父さんと原書でディケンズを読むとか、「オリエンテーリング部」に属していたりとか、家で縄跳びをしているとか、お父さんやお母さんとですます調で話すとか、少しも「小説に出てくる高校生」風のところがない。
普通の小説なら、「今風」であることをもっと意識したり、大人が使わない流行語を使ってみせたり、流行の何か(商品やタレント名、時事要素)を挿入するところだが、そういうアピールがない。なさすぎである。
かろうじて一ヶ所、
「真夜中すぎにアメリカのニュー・ミュージックのヴィデオをまとめた放映がある」
ために録画するという行為が出てくるのだが、「ニュー・ミュージック」というのは日本独自の名称なのでちょっと用法があやうく、「アメリカの」を付けるとおかしな感じがする。
おそらくMTVのことを言いたいらしいが、それなら「MTVの新曲特集」とか「プロモーション・ヴィデオの新譜特集の回」とか、見直す余地がある。
しかし総じて、「ここがおかしい!」と指摘できる分だけこちらにも余裕が生じて、逆に読みやすくなっている。
とはいえ、この主人公の父親がどんな仕事をしているのか、まったく説明されない癖にちょいちょい口を挟み、主人公の兄は当然のごとく知的障害者で、その説明もほとんどなし。
「まあ、大江健三郎だからしょうがないか……」
と思いながら読んでいる。
確かに以前、読みかけたので、ぼんやり記憶に残っている箇所を読み直している感覚を味わいつつ……。