大江健三郎が亡くなって、世間にとってそれが大ニュースかというと、そうでもなかった。
文芸誌を立ち読みすると、有名な作家が追悼エッセーを書いているが、ほとんどの人は60~70年代の作品の素晴らしさを讃えていて、「正直なところ、近作は読んでいない」という告白がチラホラあった。
追悼エッセーを依頼されて、しかも引き受けた人でこのレベルなのかと思うと残念、と言いたいところだが自分も似たようなもので、「取り替え子」も単行本で出た当時、新刊として買ったものの、読みにくいので放置していた。
ところが昨日、NHKで追悼番組を見て、ふと読み始めたらちゃんと読める。本人を含めて、みな別名で書かれているのだが、誰が誰を指しているのか即答できる。歴史検定3級の問題よりもずっと簡単である。
伊丹十三、武満徹、渡辺一夫、北野武、大島渚、本多勝一などなど、ほとんどゴシップ集のように150ページ辺りまで読めた。
でもって、大江健三郎の小説にはよく出てくるパターンがあって、講演やシンポジウムなどで海外に行くと、そこに変な人が絡んでくるというもの。もっと前の作品だと、いきなり自宅に変な人が来るというパターンもある。
他にも「突然、暴力にさらされる」「突然、四国の山奥の村の話になる」など、毎度おなじみの話題がやはり「取り替え子」にも出てくる。
この辺を少しも説明しないのだが、それで当然、と読む側も書く側も思い込んでいるようなところがある。そのくせ「40代以降の作品は急激に売り上げが落ちた」「読まれていない」という話題が作中に出てくる(奥さんも読んでいない)。
そういう訳で、「大江健三郎の小説には見えないルールがある」と、はっきり示してあげればいいのに、と思うのだが、なぜかそのへんはスルーしてしまうし、ミステリのように「登場人物一覧」があってもいい筈が、まったく無し。
これでは誰も読まなくなって当然ともいえる。けれどもやはり面白いので、お勧めしづらいが面白い。これからも一部の好事家に読まれる、そういうポジションに落ち着くのかなと思う。
ちなみにここ数日、読み返していた山本夏彦も久世光彦も、大江健三郎に直接、会っており話してもいる。それぞれ面白いやり取りがあるので、それに影響されて読めるようになったのかもしれない。