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カナリアとして鳴くべきかの巻

よく小説家は炭鉱のカナリア(危機を察知して反応する役割)だと言われるが、これを最初に言い出したのはヴォネガットだろうか(ちょっと自信がない)。

しかし、昨日はたまたま図書館にあった山田詠美のエッセー集を読んでいて、これに反論する内容があった。

世の中の一大事(歴史に残るような天災や事故)に対しても、率先して鳴くのではなくて、むしろカナリアが死んで、死体から腐臭が漂って、そのまた後のことも観察して書くぐらいで、そういう立場もあるのだと。

何か「書くべきこと」「大切な記憶」があった場合、それを小説として整えるまでにはかなりの時間を置くべきだという意見もあった。

私はやはり率先して鳴くのは疑問で、東北の震災の時も、いち早く「震災特集号」みたいなものを出して、そこに創作を出すというのは冒涜的な気すらした。

時間を置いてから何かを書くとして、それこそが次の何かに対する炭鉱のカナリアになり得るのではないか、という見方もできる。「1984年」は1984年が過ぎても参照され続けるし、戦争文学も同じではないかと考える。

筒井康隆も同じような趣旨の文章を「不良老人の文学論」に書いていた。

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