前回書いた、「気付く場面」は、何とか乗り越えて通過しました。
全体が長くなっているので、もしかすると最終的には原稿用紙で30~40枚くらいの長さになるかもしれません。
ところで先日、自分が参加している読書会の課題図書を読んだのですが、ほとんど良い点を見つけることができなかったです。自分だけかと思って、他の人が絶賛していたらどうしようと不安でしたが、やはり参加者のほぼ全員が駄目出ししました。
欠点、おかしい点、不満に思う点をメモしてみました。
が、あれこれ書き出してみると、そうした欠点は、多かれ少なかれ自分の書いた創作にも当てはまるように見えなくもない。細かい部分はもちろん違いますが、大筋として。
こういう風に、ある作品の悪口を書いた上で、自作に重ね合わせるという方法は、やや有益ではないかと考えました。
そこで、一部を公開してみます。
皆さんは自作への本音の評として、もしこう言われたら……、という仮定で、試しに受け止めてみて下さい。
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1.冒頭で妻が架空の難病になるが、わざわざ架空の病気にしなくても「若年性認知症」とすれば済むような印象を受ける。
登場人物自身が「何だ、その安いSF映画みたいな設定は」と腐す。読者もそう思っているが、書き手はどこかでその安い設定を覆すような成果を提出する義務があるのでは。しかし結局、それに成功していない。
病気の宣告を受けた妻が怒り出すのがちょっと奇妙な反応で、普通はこういう状況では怒らない。これがもしドラマなら、怒る様子を演じる俳優が気の毒になるくらいで、演出家と脚本家のミスではないか。医療ミスなら話はわかる。
「世界に一人だけの病気」という都合のよさ。他にまったく一人もいないという状況や、病気に至る経緯の説明がない。ナンセンスな掌編なら可能だと思う。「世界で一人だけの病気」でも「世界中の人、全てが同じ難病」でも通る。しかし、長編の冒頭でこれはしんどい。
読者としては「置いていかれた」ような気がする。なぜ置き去りにするのか。大して乗りたくもないバスが、時刻表より先に行っちゃって、それを見送っているという感じ。
「頭を使うと寿命が縮む病気→その病気にかかった作家が何かを書くとしたら命がけになる→命がけの執筆で何を書き残すか→夫婦愛で感動させたい」という下心が透けて見える。
設定を逆にして、世界中の皆が「物事を深く考えると寿命が縮む」病気になっていて、日本人で作家の妻だけがただ一人、発病しないという設定にしたらどうか。そういう状況下で何を書くべきか、という問いかけなら皮肉な味わいも出るし、興味を持てるかもしれない。
2.読まれたくない小説があって、職場にデータの入ったUSBメモリーを持って行くかどうか、それをうっかり忘れるかどうか。それを意中の人が見つけるかどうか、読むかどうか、読んでいるところへ取りに戻った本人と出くわすかどうか。すべて恣意的。その後の展開は目を覆いたくなる。
何かうまいことを言った人がいると、そこで「いただき」とか「使える」と小声で言う作家志望者。その芝居臭さ、演出の酷さ。
3.「彼は」とか「彼女は」といった書き方をするので、冒頭に出てきた夫婦と同じ人物と見せかけて、実は二人とも、あるいは一方は別人ではないかと思わせる。何か仕掛けがあるはず(←なかった)。
4.男は女の書いている小説に夢中になるが、それがどんな小説か、まったく分からない。もともと何が好きなのか、どういう傾向の小説を読んでいるのか、すべて曖昧。
彼女が何を書いているのかも曖昧。それで「面白い」「最高」「世界一」とされても、ついていけない。たとえば、料理の描写がないのに「美味しい」という感想を連発するような感じ。
5.後半になると、この小説を書いている作者自身が心配になってくる。自分を主人公にして書いて、自分以外の周囲の人間を「敵」と「味方」に分類する。
敵と味方以外はこの世にいないような感じ。マルかバツかだけで人間を選別してしまう。我が強すぎる。狭い人間観と世界観。
俳句や短歌ですら視野の広さ、知性の深さ、精神の高さを感じさせる作が多くあるが、これは読んでいると視野が窮屈になってくる。
6.話をひっくり返せば何でもどんでん返しになるかというと、そうではない。
「ばちが当たった」と悲しげに書いてあるが、一度ひっくり返しているので「どうせまた話をひっくり返すのでは」という気がして同情できない。
読者は作者を(できれば)信頼したがっている。あるいは信頼して読み始めている。金と時間と労力、そして信頼を前払いしている。ところが変な風に読者を裏切ったせいで、それこそ「ばちが当たった」ような状態になっている。ボタンの掛け違いになって、そのまま続くので。