記憶の迷宮

@raputarou

記憶の迷宮

第一章 目覚め


目が覚めた時、私は白い部屋にいた。


どこだ、ここは——


私の名前は——


思い出せない。


私は、ベッドから起き上がった。頭が、ひどく痛い。全身が、鉛のように重い。


部屋を見回した。窓はない。ドアが一つだけ。壁は真っ白で、何の装飾もない。


「誰か......」


声を出そうとしたが、喉がカラカラに渇いていた。


その時、ドアが開いた。


入ってきたのは、白衣を着た女性だった。三十代、黒髪のショートカット、鋭い目をしている。


「目覚めましたね」女性が、淡々と言った。「私は、橘サキ。あなたの担当医です」


「担当医......ここは、病院?」


「ええ。精神科病院です」


橘医師は、私の瞳孔を確認した。


「あなたは、三日前にここに運ばれてきました。記憶喪失の状態で」


「記憶喪失......」


そうだ。私は、自分の名前すら思い出せない。


「私の名前は?」


「香月レイ。三十二歳。職業は、刑事でした」


刑事——


その言葉を聞いた瞬間、フラッシュバックが起きた。


銃声、悲鳴、血——


「うっ......」


私は、頭を押さえた。


「無理に思い出そうとしないでください」橘医師が言った。「記憶は、徐々に戻ってきます」


「何があったんですか? 私に」


「それが......分からないんです」


橘医師は、困惑した表情を見せた。


「あなたは、廃ビルで倒れているところを発見されました。頭部に外傷があり、記憶を失っていた」


「事件、ですか?」


「おそらく。警察も調査していますが、詳細は不明です」


橘医師は、立ち上がった。


「今日は、リハビリルームで他の患者さんたちと交流していただきます。人と話すことで、記憶が戻るかもしれません」


私は、橘医師に連れられて、リハビリルームに向かった。


そこには、既に数人の患者がいた。


「皆さん、新しい患者さんです。香月レイさんです」


橘医師が紹介すると、患者たちが私を見た。


最初に話しかけてきたのは、四十代の男性だった。穏やかな顔つき、だが目に深い悲しみがある。


「初めまして。私は、田所ケンジと言います」


「よろしくお願いします」


「僕は、森川タクミ!」


元気な声で話しかけてきたのは、二十代前半の若い男性。笑顔が印象的だが、どこか不安定な雰囲気がある。


「こんにちは。私は、水野アヤ」


三十代の女性。美しいが、どこか空虚な目をしている。


「......」


隅に座っていた老人——六十代くらいか——は、何も言わず、ただ私を見つめていた。


「あの方は、山下トシオさん。あまり喋らないんです」橘医師が説明した。


他にも、看護師の吉川ユミ——二十代の明るい女性、守衛の佐々木リュウ——五十代の厳格そうな男性、そして調理師の中村サチコ——四十代の優しそうな女性がいた。


「ここの病院は、小規模なので、患者も職員も少ないんです」橘医師が言った。「でも、だからこそ、家族のように親密に過ごせます」


家族——


その言葉を聞いた瞬間、また頭痛がした。


誰かの顔が、フラッシュバックする。


だが、はっきりとは見えない。


「レイさん、大丈夫?」


森川が、心配そうに声をかけてきた。


「ええ、大丈夫です」


私は、無理に笑顔を作った。


その日の午後、私は一人で病院内を歩いた。


記憶を取り戻すヒントが、何かあるかもしれない。


だが、病院は異様に静かだった。


患者は、私を含めて四人だけ。職員も、数人しかいない。


そして——


なぜか、全ての窓に鉄格子がついている。


まるで、牢獄のように。


「レイさん」


背後から声がかけられた。


振り向くと、田所ケンジが立っていた。


「少し、話せますか?」


「はい」


私たちは、中庭のベンチに座った。


「実は、あなたに警告したくて」田所が、小声で言った。


「警告?」


「この病院は......普通じゃないんです」


田所の目が、恐怖に揺れた。


「患者が、次々と消えているんです」


「消える......?」


「ええ。一週間前までは、十人の患者がいました。でも、今は四人だけ」


私の背筋が、凍った。


「六人は、どこに?」


「分かりません。橘医師は『退院した』と言いますが......」


田所は、周囲を確認してから続けた。


「でも、誰も退院の様子を見ていないんです。ある日突然、いなくなる」


「それは......」


「気をつけてください、レイさん」


田所は、私の手を握った。


「あなたも、狙われるかもしれない」


その夜、私は眠れなかった。


田所の言葉が、頭から離れない。


患者が消えている——


そして、私も記憶を失っている。


これは、偶然なのか。


それとも——


深夜、廊下から足音が聞こえた。


私は、そっとドアを開けた。


暗い廊下を、誰かが歩いている。


白衣を着た人物——橘医師だ。


彼女は、地下に続く階段を降りていった。


私は、後をつけた。


地下は、さらに不気味だった。


長い廊下、両側にはいくつもの部屋。


橘医師は、一番奥の部屋に入った。


私は、そっと近づき、ドアの隙間から中を覗いた。


そして——


息を呑んだ。


部屋の中には、大きなガラスの水槽のようなものがあった。


そして、その中に——


人が、浮かんでいた。




第二章 狂気の真実


私は、恐怖で声も出なかった。


水槽の中の人物は、目を閉じ、呼吸器のようなものをつけていた。


生きているのか、死んでいるのか——


「何をしているんですか」


背後から、声がした。


振り向くと、守衛の佐々木が立っていた。


「あ、あの......」


「患者は、夜間の外出は禁止です」


佐々木の目が、冷たかった。


「部屋に戻ってください」


私は、何も言えず、部屋に戻った。


だが、眠れるはずがなかった。


あの水槽は、何なのか。


中にいた人物は、誰なのか。


そして、橘医師は何をしているのか。


翌朝、私は森川に地下で見たことを話した。


「やっぱり......」森川が、暗い顔をした。


「この病院、おかしいんだ。僕も、何度か変なものを見たことがある」


「変なもの?」


「夜中に、手術室から光が漏れていたり、誰かの悲鳴が聞こえたり......」


森川は、震えながら続けた。


「でも、誰も信じてくれない。『幻覚だ』って言われる」


その時、橘医師が現れた。


「レイさん、森川さん。何を話しているんですか?」


彼女の目が、私たちを鋭く見つめた。


「いえ、何も......」


「そうですか」


橘医師は、微笑んだが、目は笑っていなかった。


「レイさん、今日は特別な治療を受けていただきます」


「治療?」


「記憶を取り戻すための、特殊な治療です」


私は、橘医師に連れられて、治療室に向かった。


そこには、大きな椅子と、様々な医療機器があった。


「座ってください」


私が椅子に座ると、橘医師は私の頭に電極のようなものを取り付けた。


「これで、脳に刺激を与えて、記憶を呼び起こします」


「痛くないですか?」


「少し、不快感があるかもしれません」


橘医師が、スイッチを入れた。


その瞬間——


私の脳内に、激しい映像が流れ込んできた。


廃ビル、銃を持った男、そして——


「やめて!」


誰かの声。


女性の声。


私の——声?


「落ち着いて、レイさん」


橘医師が、スイッチを切った。


「何か、思い出しましたか?」


「......銃を持った男がいました。そして、私は誰かを守ろうとしていた」


「誰を?」


「分かりません。でも......大切な人でした」


橘医師は、メモを取った。


「記憶が少しずつ戻ってきていますね。良いことです」


だが、私は橘医師を信用できなくなっていた。


昨夜、地下で見たものが、頭から離れない。


その日の午後、私は水野アヤと話す機会があった。


「レイさん、気をつけて」


水野が、突然言った。


「この病院から、出られないかもしれない」


「どういうことですか?」


「私も、最初は『すぐに退院できる』と言われていました。でも、もう半年以上ここにいるの」


水野の目に、絶望があった。


「退院させてもらえないんです。理由をつけて、引き留められる」


「なぜ......」


「分からない。でも、何か隠している。橘医師も、この病院も」


その夜、私は決意した。


この病院の秘密を、暴く。


そして、ここから脱出する。


深夜、再び地下に向かった。


今度は、懐中電灯を持って。


地下の廊下を進み、昨夜の部屋に着いた。


ドアは、鍵がかかっていなかった。


私は、そっと中に入った。


水槽の前に立ち、中を見た。


そして——


驚愕した。


水槽の中にいたのは——


消えた患者の一人だった。


私は、他の患者の写真を見たことがある。


間違いない。


「これは......」


私は、震えた。


消えた患者たちは、ここにいたのか。


だが、なぜ水槽の中に——


その時、部屋の照明が点いた。


「見つかってしまいましたね」


橘医師が、入口に立っていた。


そして、彼女の隣には——


佐々木守衛と、吉川看護師がいた。


三人とも、冷たい目で私を見ていた。


「レイさん、あなたは知りすぎました」


橘医師が、注射器を取り出した。


「残念ですが、あなたも『治療』を受けていただきます」


私は、後ずさった。


だが、背後には壁がある。


「待って! 説明してください! これは何なんですか!」


「説明?」


橘医師が、笑った。


狂気の笑みだった。


「これは、私の研究です。人間の記憶を操作する研究」


「記憶を......操作?」


「そうです。私は、記憶を消したり、植え付けたり、自由に操作できる技術を開発しました」


橘医師の目が、狂気に輝いた。


「そして、あなたたち患者は、私の実験台なんです」


私は、恐怖で声も出なかった。


「さあ、大人しくしてください」


佐々木と吉川が、私に近づいてきた。


私は、必死に抵抗した。


だが、二人は強く、私を押さえつけた。


橘医師が、注射器を私の腕に近づけた。


その瞬間——


ドアが蹴破られた。


入ってきたのは——


田所ケンジと、森川タクミだった。


そして、彼らの手には、何か武器が握られていた。




第三章 反撃


「レイさんから離れろ!」


田所が、パイプを構えて叫んだ。


橘医師は、驚いた顔をした。


「田所さん......あなた、なぜここに」


「この病院の秘密を知ったんだ」田所が、怒りの声で言った。「お前たちが、患者を実験台にしていることを」


「そうか......では、あなたも『治療』が必要ですね」


橘医師が、佐々木と吉川に合図した。


二人は、私を離し、田所たちに向かった。


だが、森川が素早く動いた。


彼の手にあった消火器を、吉川に向けて噴射した。


吉川が、目を押さえてよろめいた。


田所は、パイプで佐々木を殴った。


佐々木が、床に倒れた。


「レイさん、逃げて!」


森川が、叫んだ。


私は、走り出した。


橘医師が、追いかけてきた。


だが、田所が彼女を押さえた。


「行け! 外部に連絡するんだ!」


私は、階段を駆け上がった。


一階に着くと、他の患者たちがいた。


水野、山下——


「何があったんですか!?」水野が、驚いて尋ねた。


「この病院は、異常です! 逃げましょう!」


私は、正面玄関に向かった。


だが、ドアは鍵がかかっていた。


「くそっ!」


「窓は?」山下が、初めて喋った。


「窓には、鉄格子が......」


「いや、裏口がある」


山下が、私たちを案内した。


裏口に向かう途中、調理師の中村サチコに会った。


「あなたたち、どこに......」


「中村さん、この病院の秘密を知っていますか?」


私が尋ねると、中村は複雑な表情をした。


「......知っています」


「なぜ、黙っていたんですか!」


「怖かったんです。橘医師に逆らえば、私も『治療』される」


中村が、涙を流した。


「でも、もう耐えられない。逃げましょう」


私たちは、裏口に向かった。


だが、そこには既に——


橘医師と、佐々木、吉川が待っていた。


「逃がしませんよ」


橘医師が、冷たく言った。


「あなたたちは、私の大切な実験データです」


佐々木と吉川が、武器を構えた。


私たちは、包囲された。


その時——


外から、サイレンの音が聞こえた。


「警察だ!」


誰かが、叫んだ。


橘医師の顔が、青ざめた。


「まさか......」


外から、拡声器の声が聞こえた。


「中にいる者、出てきなさい! ここは、包囲されています!」


橘医師は、パニックになった。


「どうして......誰が通報を......」


その時、地下から田所と森川が現れた。


「僕たちが、通報しました」森川が、携帯電話を見せた。


「地下に、隠してあった携帯を見つけたんです」


橘医師は、絶望した顔をした。


数分後、警察が突入してきた。


橘医師、佐々木、吉川——三人は、その場で逮捕された。


私たちは、救出された。


だが——


私の記憶は、まだ戻っていなかった。


病院の外で、一人の刑事が私に話しかけてきた。


「香月さん、私は捜査一課の村田と言います」


五十代、厳格そうな顔つきの男性。


「あなたのことを、探していました」


「私を......?」


「はい。三日前、あなたは連続殺人犯を追っていました。そして、犯人に襲われた」


村田刑事が、説明を続けた。


「犯人は逃走し、あなたは重傷を負って倒れていた。そして、橘医師の病院に運ばれた」


「橘医師が......私を?」


「はい。ですが、橘医師はあなたを治療するどころか、記憶を消す実験をしていたんです」


私は、拳を握りしめた。


「では、私の記憶喪失は......」


「橘医師の仕業です」


村田刑事は、続けた。


「そして、あなたが追っていた連続殺人犯は、まだ捕まっていません」


その言葉に、私の心臓が跳ね上がった。


「連続殺人犯が......まだ?」


「はい。そして......」


村田刑事は、写真を見せた。


「犯人の顔が、目撃されています」


写真を見た瞬間、私は凍りついた。


そこに写っていたのは——


田所ケンジだった。




第四章 裏切りの連鎖


「田所さんが......犯人?」


私は、信じられなかった。


彼は、私を助けてくれた。


命を懸けて。


「間違いありません」村田刑事が言った。「田所ケンジは、三ヶ月前から五人を殺害しています」


「でも......」


「彼は、精神病院に潜伏していたんです。患者を装って」


村田刑事が、続けた。


「そして、あなたが病院に運ばれてきたことを知り、あなたを殺そうとしていた」


「それなら、なぜ私を助けたんですか?」


「それは......」


村田刑事が、言葉に詰まった。


その時、背後から声がした。


「村田さん、嘘はよくないですよ」


振り向くと、田所ケンジが立っていた。


だが、彼の表情は——


冷たく、狂気に満ちていた。


「田所さん......」


「正確には、『田所』じゃない」


彼が、笑った。


「僕の本名は、黒崎リョウ。連続殺人犯」


私は、後ずさった。


「やはり......」


「でも、村田刑事の説明は、半分間違っている」


黒崎——いや、田所が言った。


「僕は、確かに五人を殺した。でも、あなたを殺そうとはしていない」


「どういうことですか?」


「逆だよ。僕は、あなたを守ろうとしていたんだ」


田所が、村田刑事を睨んだ。


「本当の敵は、こいつだ」


村田刑事の顔が、一瞬歪んだ。


「何を言っているんだ、黒崎」


「しらばっくれるな」


田所が、一歩前に出た。


「お前が、真犯人だ」


私は、混乱した。


「どういうことですか......」


「説明しよう」


田所が、語り始めた。


「三ヶ月前、僕は連続殺人事件の真犯人を追っていた。僕は、元刑事だ」


「元......刑事?」


「ああ。そして、調査の結果、真犯人が村田刑事だと分かった」


田所が、続けた。


「だが、証拠がなかった。だから、僕は独自に動いた。そして、村田の犯行を止めようとした」


「嘘だ!」村田刑事が、叫んだ。「お前が犯人だ! 証拠もある!」


「その証拠は、お前が捏造したものだ」


田所が、冷静に答えた。


「そして、香月刑事——レイさんも、真実に気づいていた。だから、村田はレイさんを襲った」


私の頭に、記憶が蘇ってきた。


廃ビル——


追いかけていたのは、村田刑事だった。


そして、彼が銃を——


「思い出した......」


私は、村田を睨んだ。


「あなたが、私を撃った」


村田刑事の顔が、歪んだ。


「くそっ......」


彼は、拳銃を抜いた。


「ここで、全員殺す」


だが、その瞬間——


森川タクミが、村田に飛びかかった。


「させない!」


二人が、もみ合った。


銃声が、響いた。


森川が、肩を撃たれて倒れた。


「森川さん!」


私は、駆け寄った。


だが、その隙に村田は逃走した。


「追え!」


田所が、叫んだ。


私は、森川を看護師に任せ、村田を追いかけた。


村田は、病院の裏手に逃げていった。


だが、そこには——


水野アヤと、山下トシオが立っていた。


「逃がしませんよ」


水野が、冷たく言った。


「私たちも、あなたの犠牲者の遺族です」


山下も、頷いた。


村田は、追い詰められた。


「くそっ......」


彼は、拳銃を自分の頭に向けた。


「待って!」


私は、叫んだ。


だが——


銃声が、響いた。


村田刑事は、その場に倒れた。


すべてが、終わった。


だが、私の心は晴れなかった。


数日後、私は病院を退院した。


記憶は、完全に戻った。


そして、真実も明らかになった。


村田刑事は、十年前から連続殺人を繰り返していた。


被害者は、十五人以上。


そして、罪を田所——黒崎リョウに着せようとしていた。


黒崎は、元刑事として独自に調査し、真犯人を追い詰めようとしていた。


だが、逆に犯人に仕立て上げられた。


そして、橘医師の病院に潜伏していた。


「複雑な事件でしたね」


黒崎が、私に言った。


「ええ......」


私たちは、病院の前で話していた。


「これから、どうするんですか?」私が尋ねた。


「分からない。元刑事だが、もう警察には戻れない」


黒崎が、空を見上げた。


「でも、真実を追い求めることは、やめない」


「私も、です」


私は、決意した。


「一緒に、戦いましょう。真実のために」


黒崎が、微笑んだ。


「いい提案だ」




第五章 記憶の先に


それから三ヶ月が経った。


私——香月レイは、刑事を続けていた。


そして、黒崎リョウは、私のパートナーとして復職した。


村田事件の真相が明らかになり、彼の冤罪が晴れたのだ。


「香月、新しい事件だ」


黒崎が、資料を持ってきた。


「また、連続殺人か......」


私は、ため息をついた。


世の中には、まだまだ闇がある。


だが、私たちは戦い続ける。


森川タクミは、肩の傷が治り、元の生活に戻った。


彼は、今もたまに私たちに会いに来る。


「レイさん、元気?」


森川の明るい笑顔は、変わらない。


「ええ。あなたこそ」


「僕は、最高だよ! あの事件のおかげで、人生が変わった」


森川が、嬉しそうに言った。


「今は、心理カウンセラーとして働いているんだ」


「素晴らしいわね」


水野アヤと山下トシオも、新しい人生を歩んでいた。


水野は、被害者遺族の支援団体を立ち上げた。


山下は、引退して孫と暮らしている。


中村サチコは、別の病院で調理師として働いている。


みんな、あの悪夢から解放された。


だが——


橘サキ医師は、裁判を待っている。


彼女の罪は、重い。


患者を実験台にし、記憶を操作し、人権を踏みにじった。


「橘医師、どうして......」


私は、拘置所で彼女に会った。


「どうして、あんなことを?」


橘医師は、虚ろな目で答えた。


「私は、天才だったんです。だが、誰も認めてくれなかった」


「だから......」


「だから、自分で証明しようとした。記憶操作技術を完成させて、世界を驚かせようと」


橘医師の目に、涙が浮かんだ。


「でも、間違っていました。私は、人として最も大切なものを失った」


「それは?」


「共感です。他者への思いやり」


橘医師は、深く頭を下げた。


「すみませんでした」


私は、何も言えなかった。


ただ、人間の弱さと狂気を感じた。


その夜、黒崎と二人で酒を飲んだ。


「香月、お前、記憶を取り戻して良かったか?」


黒崎が、尋ねた。


「どういう意味?」


「時には、忘れた方が楽なこともある」


黒崎が、グラスを見つめた。


「辛い記憶、トラウマ——それらを抱えて生きるのは、苦しい」


私は、少し考えてから答えた。


「でも、記憶があるから、私は私なんです」


「そうか......」


「辛い記憶も、幸せな記憶も、全てが私を作っている。それを失ったら、私じゃなくなる」


黒崎が、微笑んだ。


「さすがだな、香月」


「あなたこそ。よく、あの状況で正気を保ちましたね」


私は、黒崎を見た。


「犯人に仕立て上げられ、精神病院に潜伏し——普通なら、狂いますよ」


「何度も、狂いそうになった」


黒崎が、正直に答えた。


「でも、真実を諦めたくなかった。そして——」


彼は、私を見た。


「お前を救いたかった」


私の心臓が、跳ねた。


「私を......?」


「ああ。お前は、真実を追い求める刑事だ。俺と同じだ」


黒崎が、続けた。


「だから、見捨てられなかった」


私は、顔が熱くなった。


だが、素直に言葉が出なかった。


「......ありがとう」


それが、精一杯だった。


黒崎が、笑った。


「どういたしまして、相棒」


数週間後、私は一人で病院の跡地を訪れた。


あの悪夢の舞台——


今は、取り壊しが進んでいた。


廃墟になりつつある建物を見つめながら、私は考えた。


あの病院で、何が起きていたのか。


橘医師は、記憶操作の研究をしていた。


だが、それだけではない。


彼女は、患者の記憶を奪い、新しい記憶を植え付けていた。


まるで、人形を作るように。


そして、消えた患者たちは——


地下の水槽で、「保管」されていた。


実験が終わるまで、生かされていた。


恐ろしいことだ。


だが、同時に思った。


記憶とは、何なのか。


それが操作できるなら、私たちの「自我」とは何なのか。


答えは、出ない。


だが、一つだけ確かなことがある。


記憶があるから、私たちは人間なのだ。


過去があるから、現在がある。


そして、未来を作ることができる。


「レイさん」


背後から、声がした。


振り向くと、森川タクミが立っていた。


「森川さん、どうしてここに?」


「同じですよ。あの場所を、もう一度見たくて」


森川が、病院の跡地を見つめた。


「ここで、僕の人生が変わったんです」


「良い方向に?」


「ええ」


森川が、微笑んだ。


「あの時、僕は絶望していました。記憶を失い、自分が誰か分からなくて」


「でも、レイさんや黒崎さんと出会って、戦う勇気をもらった」


森川は、私を見た。


「だから、今の僕があるんです」


私は、嬉しかった。


「あなたも、私たちを助けてくれました。ありがとう」


「いえ、お互い様です」


私たちは、しばらく並んで立っていた。


そして、森川が言った。


「レイさん、記憶を全て取り戻したんですか?」


「ええ......ほとんど」


「ほとんど?」


「一つだけ、思い出せないことがあるんです」


私は、正直に言った。


「誰かの顔——大切な人の顔が、ぼんやりとしか見えない」


「それは......」


「でも、いつか思い出せると思います」


私は、空を見上げた。


青い空。


あの病院の、窓のない部屋とは違う。


自由な空。


「きっと、思い出せますよ」


森川が、励ましてくれた。


「記憶は、心の奥底に残っているから」


その言葉に、私は希望を感じた。


数ヶ月後——


私は、ある人物と再会した。


「お久しぶりです、香月刑事」


それは、吉川ユミだった。


あの病院の看護師。


だが、今は——


「刑期を終えて、出所しました」


吉川が、頭を下げた。


「本当に、申し訳ありませんでした」


彼女は、裁判で橘医師に脅されていたことを証言し、減刑された。


執行猶予付きの判決だった。


「これから、どうするんですか?」


私が尋ねると、吉川は答えた。


「看護師の資格は剥奪されました。だから、別の仕事を探します」


「そうですか......」


「でも」


吉川が、私を見た。


「いつか、償いたいです。患者さんたちに」


「償い......」


「はい。私は、橘医師の共犯者でした。患者さんたちを苦しめた」


吉川の目に、涙が浮かんだ。


「だから、残りの人生をかけて、償いたいんです」


私は、吉川の手を握った。


「頑張ってください。あなたなら、できます」


吉川が、泣きながら頷いた。


人は、変われる。


過去の罪を背負いながらも、前に進める。


それを、私は信じたい。


ある日、黒崎が私に言った。


「香月、お前の記憶——思い出せない『大切な人』のこと」


「ええ」


「もしかしたら、思い出さない方がいいかもしれない」


私は、驚いた。


「なぜ?」


「辛い記憶かもしれないから」


黒崎が、真剣な顔で言った。


「脳は、時に自己防衛のために記憶を封印する」


「でも、私は知りたい」


「本当に?」


「ええ。それが誰であれ、私の一部だから」


黒崎は、しばらく黙っていた。


そして、言った。


「分かった。なら、調べてみよう」


黒崎は、私の過去を調べ始めた。


家族構成、友人関係、恋人——


そして、数日後——


「香月、見つけた」


黒崎が、一枚の写真を見せた。


そこには、若い男性が写っていた。


優しそうな笑顔。


見た瞬間、私の心が痛んだ。


「これは......」


「お前の婚約者だった。名前は、桜井ケンタ」


黒崎が、続けた。


「五年前、事故で亡くなった」


私の目から、涙が溢れた。


思い出した。


彼の笑顔、声、温もり——


そして、別れの日。


「ケンタ......」


私は、写真を抱きしめた。


そうだ。


私は、彼を忘れたくなかった。


だから、記憶の奥底に封印していた。


辛すぎて、思い出せなかった。


「ごめんなさい......忘れていて......」


私は、泣き続けた。


黒崎が、そっと肩に手を置いた。


「泣いていいんだ」


「でも......」


「記憶を取り戻すって、そういうことだ。辛いことも、全部受け入れる」


私は、黒崎の言葉に救われた。


そうだ。


記憶とは、良いことも悪いことも、全て含む。


それが、人生だ。


その夜、私は一人でケンタの墓を訪れた。


「久しぶり、ケンタ」


私は、墓前に花を供えた。


「あなたのこと、忘れていました。ごめんなさい」


「でも、今は思い出した。あなたとの日々を」


私は、微笑んだ。


「ありがとう。私を愛してくれて」


「そして、ごめんなさい。守れなくて」


風が、優しく吹いた。


まるで、ケンタが「いいよ」と言っているようだった。


私は、涙を拭いた。


そして、前を向いた。


ケンタは、もういない。


だが、彼の記憶は、私の中に生きている。


それで、いい。


翌日、黒崎が私に言った。


「香月、新しい事件が入った」


「また?」


「ああ。だが、今回は厄介だ」


黒崎が、資料を見せた。


「記憶喪失の被害者が、十人以上いる」


私は、資料を読んだ。


そして、驚いた。


「これは......橘医師の技術が使われている?」


「おそらく。誰かが、彼女の研究を引き継いでいる」


黒崎の目が、鋭くなった。


「また、戦いが始まる」


私は、覚悟を決めた。


「行きましょう。真実を見つけるために」


黒崎が、微笑んだ。


「ああ、相棒」


私たちは、新しい事件に向かって歩き出した。


記憶の迷宮は、まだ続いている。


だが、私たちは恐れない。


なぜなら——


記憶があるから、私たちは強いのだ。


過去を背負い、現在を生き、未来を作る。


それが、人間だ。


そして、私——香月レイは、これからも戦い続ける。


真実のために。


記憶のために。


そして——


失われた人々のために。


数年後——


私と黒崎は、数多くの事件を解決していた。


記憶操作に関わる犯罪は、後を絶たなかった。


だが、私たちは一つずつ、潰していった。


そして、ついに——


橘医師の研究を引き継いだ組織の本部を見つけた。


「ここが、最後だ」


黒崎が、言った。


「ああ」


私たちは、建物に突入した。


激しい戦いの末、組織のリーダーを逮捕した。


すべてが、終わった。


記憶操作の技術は、封印された。


もう、誰も苦しまない。


「やったな、香月」


黒崎が、疲れた顔で微笑んだ。


「ええ......ようやく」


私も、安堵の涙を流した。


長い戦いだった。


だが、勝った。


その夜、私たちは祝杯を上げた。


森川、水野、山下、中村——


かつての仲間たちも集まった。


「香月さん、お疲れ様!」


森川が、嬉しそうに言った。


「みんな、ありがとう」


私は、全員を見渡した。


「みんなのおかげで、ここまで来られました」


「いえ、香月さんの勇気のおかげです」


水野が、微笑んだ。


私たちは、夜遅くまで語り合った。


過去のこと、現在のこと、そして未来のこと。


記憶は、私たちを繋ぐ。


そして、未来を作る。


翌朝、私は一人で海を見に行った。


静かな波、青い空。


平和だ。


ケンタの写真を取り出し、見つめた。


「ケンタ、見てる? 私、頑張ったよ」


風が、答えるように吹いた。


私は、微笑んだ。


そして、写真をポケットにしまった。


過去は、終わらない。


だが、それでいい。


記憶があるから、私は前に進める。


私は、歩き出した。


新しい一日が、始まる。


新しい人生が、続く。


記憶の迷宮を抜けた先に——


希望がある。


それを、私は信じている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶の迷宮 @raputarou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画