『婚約破棄された悪役令嬢は、幼馴染の最期の願いを叶えただけです ~「英雄殺し」の汚名を被り、全てを闇に葬って私は自由になります~』
放浪人
第1話『星祭の舞踏会、婚約破棄』
シャンデリアの輝きが、私の網膜を焼き尽くすほどに眩しい。
王立アストリア学園、大講堂。 年に一度、この国のすべてが華やぐ『星祭』の最終夜。 天井に描かれた星々のフレスコ画は、無数の魔法灯によって昼間よりも明るく照らされ、着飾った貴族たちの宝石が、まるで地上に落ちた星屑のように煌めいている。
美しい、と思う。 ここにあるすべてが、残酷なほどに美しい。
床を埋め尽くす色彩の洪水。 令嬢たちのドレスが花のように咲き誇り、紳士たちの正装がその輪郭を引き締める。 優雅なワルツの旋律が、人々の笑い声とグラスが触れ合う軽やかな音色と溶け合い、甘美な陶酔を生み出していた。
空気には、教会が焚き染めたフランキンセンスの香りが濃厚に漂っている。 浄化の香りだ。 穢れを祓い、場を清めるための聖なる煙。
けれど、私にはわかっている。 どんなに香を焚こうとも、どれほどの光で照らそうとも。 この華やかな舞台の裏側には、決して拭えない『死』の気配が張り付いていることを。
私は、ヴィオラ・グランディス。 この国の筆頭公爵家の長女であり、王太子ユリウス殿下の婚約者。 そして今宵、この世界で最も忌まわしい『悪役』として断罪される女。
手にした扇で、口元の笑みを隠す。 冷ややかな、完璧な貴族の笑みだ。 誰も、私の震えには気づかない。 ドレスの下で、コルセットが肋骨を軋ませるほどの激痛を訴えていても、私は背筋を伸ばし続ける。
「……ヴィオラ様」
不意に、音楽が止まった。 指揮者のタクトが宙で凍りついたかのように、オーケストラの演奏が唐突に途切れる。 先ほどまでの喧騒が、潮が引くように静まり返っていく。
ダンスホールの中心。 人々が割れたその先に、彼がいた。
この国の王太子、ユリウス・レガリア。 プラチナブロンドの髪を完璧に整え、王家の象徴である紺碧のサッシュを肩から斜めに掛けた彼は、絵物語から抜け出してきた王子そのものだ。 その隣には、純白のドレスに身を包んだ小柄な少女が寄り添っている。 セラ・リュミエール。 平民出身ながら、稀代の聖女候補として学園に入学を許された特待生。
二人は、まるでこの世界の正義を体現するかのように、眩しい光の中に立っていた。 対して、私は。 濃紺のベルベットに銀の刺繍を施した、夜の闇のようなドレス。 手には、肘まで覆う黒いロンググローブ。 誰が見ても、配役は明らかだった。
「ヴィオラ・グランディス」
ユリウス殿下の声が、静寂のホールによく響く。 その声には、悲痛な決意と、わずかな震えが混じっていた。
「今この時をもって、君との婚約を破棄する」
予想通りの言葉。 台本通りの台詞。
周囲から、息を呑む音がさざ波のように広がる。 「まさか」「やはり」「あの噂は本当だったのか」 貴族たちの扇の影で、無数の憶測が飛び交う。
私は、ゆっくりと扇を閉じた。 パチン、という乾いた音が、やけに大きく響いた。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか。殿下」
声は震えなかった。 私の喉は、感情とは別の回路で動いているようだった。 幼い頃から叩き込まれた貴族教育の賜物だろうか。それとも、心がすでに壊れてしまっているからだろうか。
ユリウス殿下は、苦痛に顔を歪めた。 彼は優しい人だ。 優しすぎて、正しすぎる人だ。 だからこそ、悪を許せない。たとえその悪が、かつて愛を誓った婚約者であったとしても。
「君は……自分が何をしたか、わかっているはずだ」
殿下が拳を握りしめる。 その視線の先には、私ではなく、私の『罪』が見えているのだろう。
「我が国の英雄候補であり、騎士科の首席でもあったレオン・アルヴェイン。……君の幼馴染でもある彼を、君は毒殺したな」
ドッ、と会場が沸いた。 悲鳴があちこちで上がる。 信じられない、という声と、やっぱり、という納得の声。
「レオン様を……?」 「あの英雄を殺したのが、ヴィオラ様だなんて」 「嫉妬だわ。レオン様がセラ様と親しくされていたから」 「なんて恐ろしい女だ」
無数の視線が、針のように私に突き刺さる。 軽蔑。憎悪。恐怖。 それらが肌を焼き、心を削り取っていく。
けれど、私は動じない。 否定もしない。 ただ、静かに殿下を見つめ返す。
レオン。 その名を聞くだけで、胸の奥にある古傷が裂けるように痛む。 太陽のように笑う、赤髪の少年。 いつも私の前に立ち、守ってくれた幼馴染。 『ヴィオラ、お前は難しく考えすぎなんだよ』 そう言って、私の強張った心を解きほぐしてくれた、たった一人の理解者。
彼はもう、いない。 この世のどこにも。
「……証拠は、おありなのですか」
私は淡々と問い返した。 まるで、他人事のように。
「とぼけるな!」
叫んだのは、殿下ではなかった。 彼の背後に控えていた、側近候補の男子生徒たちの一人だ。
「セラが……セラが見たんだ! 君が、レオンに何かを飲ませるのを!」
視線が集まる中、聖女候補セラが一歩前に出る。 彼女の大きな瞳には、大粒の涙が溜まっていた。 震える手で胸元を握りしめ、彼女は私を睨みつける。 そこにあるのは、純粋な正義感。 一点の曇りもない、善意の塊。
「私……見ました。遺跡実習の夜、ヴィオラ様が、苦しむレオン様に……黒い小瓶の薬を、無理やり……」
セラの声が涙で詰まる。
「レオン様は、苦しんでいました。助けて、って……そう言っているように見えました。なのにヴィオラ様は、冷たい顔で……口を塞いで……!」
「ひどすぎる……」 「悪魔だ」
会場の空気が、完全に敵意へと変わる。 誰もが私を断罪者として見ている。 殺人者。冷血女。 嫉妬に狂った悪役令嬢。
私は、黒い手袋に包まれた自分の左手を見つめた。
あの日。 あの暗い遺跡の底で。 レオンは確かに苦しんでいた。 全身から脂汗を流し、血管が浮き上がり、魂が焼けるような激痛にのたうち回っていた。
『助けて』? 違う。 彼は、そんなことは言わなかった。
あいつは、最期まで笑おうとしていた。 激痛に顔を歪めながら、それでも私に言ったのだ。
『頼む、ヴィオラ』
血の混じった声で。 私の手を、骨が軋むほど強く握りしめて。
『俺が、俺のままでいられるうちに……終わらせてくれ』 『化け物になって、お前や皆を傷つけたくない』 『だから……お前の手で』
私は叶えただけだ。 彼の、最期の願いを。 一番苦しまない眠り薬を調合し、誓約魔術でその魂を縛り、永遠の安らぎを与えた。 それは、法に照らせば殺人かもしれない。 けれど、私にとっては救済だった。
でも、言えない。 真実を口にすることはできない。 もし私がここで、「あれはレオンが望んだことだ」と叫べば。 「彼は禁忌の遺物に取り込まれ、暴走寸前だった」と明かせば。
レオンの名誉は地に落ちる。 英雄候補ではなく、『国を滅ぼしかけた危険因子』として歴史に刻まれる。 彼の家族は糾弾され、彼が命を賭けて守ろうとしたこの学園の平和も、王国の秩序も崩れ去る。
だから、私は沈黙を選んだ。 レオン・アルヴェインを、悲劇の英雄のまま眠らせておくために。 すべての泥を、私一人が被ればいい。
「……ヴィオラ」
ユリウス殿下が、痛ましげに私を見る。 その瞳には、まだわずかな期待が残っていた。 否定してくれ、と。 嘘でもいいから、無実だと言ってくれ、と。
「君の手袋。……それを外して、手を見せてくれないか」
殿下の言葉に、私はわずかに眉を動かした。
「……なぜでしょう」
「その手袋の下に、証拠があるはずだ。毒を扱った時に生じる、特有の皮膚の変色……そして、彼に飲ませた薬の残滓が」
学園の研究室から入れ知恵されたのだろう。 確かに、強力な魔薬を扱えば、術者の手には痕跡が残る。 特に、私が使ったような『禁忌』に触れる薬ならば。
私は、ゆっくりと首を横に振った。 黒いレースの縁取りが揺れる。
「お断りいたします」
「なぜだ! やましいことがないなら、見せられるはずだ!」
「淑女の肌を、このような公衆の面前で晒せとおっしゃるのですか? それが、王太子殿下の正義なのですか」
私の言葉は、挑発だった。 殿下の顔が怒りで赤く染まる。
「往生際が悪いぞ! 衛兵! 彼女を取り押さえろ!」
側近の叫びと共に、数人の衛兵が駆け寄ってくる。 ガシャン、ガシャン、と鎧の音が不快に響く。 私を取り囲む槍の穂先。 かつては私に敬礼をしていた彼らが、今は私を獲物として見ている。
私は、ふっと息を吐いた。 この茶番劇にも、そろそろ幕を引くべきだろう。
私は、真っ直ぐに殿下を見据えた。 その瞳を、射抜くように。
「殿下」
凛とした声が、予想以上に響いたのか、衛兵たちが足を止める。
「一つだけ、お伺いします」
「……なんだ」
「その毒の名を、言ってみていただけますか?」
会場が静まり返る。 殿下が、わずかにたじろぐ。
「……な、何を」
「私がレオンに盛ったという毒です。調査なされたのでしょう? ならば、その毒の名前も、成分も、作用もご存知のはず。……お答えください。私は彼に、何という毒を使いましたか?」
「それは……!」
殿下は言葉に詰まった。 答えられるはずがない。 私が使ったのは、既存の毒薬リストにあるような代物ではない。 レオンの体質、魔力波長、そしてその身に宿した『呪い』の進行度に合わせて、即興で調合したオリジナルの薬剤だ。 既存の鑑定魔術では、『致死性の毒』という大雑把な反応しか出ないはずだ。
「ヒ素ですか? トリカブト? それとも、東方の蛇毒でしょうか?」
私は畳み掛ける。 一歩、また一歩と殿下に歩み寄る。 衛兵たちが気圧されて道を空ける。
「答えられないのですね。……私が何を使ったのかもわからないのに、どうして『毒殺』だと断定できるのです?」
「そ、それは……! 結果として、彼は死んだではないか!」
「ええ、死にました」
私は認めた。 その瞬間、心臓が握り潰されるような痛みが走る。
「私の薬で、彼は死にました。……ですが、それが『毒』であったかどうかは、別問題です」
「屁理屈を……! 人を殺しておいて、開き直る気か!」
側近が叫ぶ。 セラが「信じられない」と顔を覆う。
その時だった。
「――そこまでにしていただこうか」
氷のように冷たく、それでいてどこか粘り気のある声が、ホールの入口から響いた。
空気が、一瞬で凍りついた。 殿下さえもが、びくりと肩を震わせる。
大理石の床を叩く、コツ、コツ、という規則正しい靴音。 現れたのは、漆黒の法衣に身を包んだ長身の男だった。 銀縁の眼鏡の奥で、感情の読めない爬虫類のような瞳が光っている。 胸元には、星辰教会の中でも特務機関に属する者だけが許された、『銀の天秤』の紋章。
教会監察官、ルシアン・ヴァルクロワ。 この国で最も関わってはいけない男。
「ルシアン……監察官……」
殿下の声が引きつる。 王族でさえ、この男には敬意を払わねばならない。 彼は『神の代行者』として、異端や禁忌を裁く権限を持っているからだ。
ルシアンは、優雅な仕草で殿下に一礼した。 だが、その目は全く笑っていない。
「王太子殿下。婚約破棄の儀、実に見事でした。……ですが、ここからは教会の管轄です」
彼は、私の方へゆっくりと向き直った。 その視線が、私の全身を舐めるように這う。 まるで、実験動物を品定めするかのように。
「ヴィオラ・グランディス嬢。貴女に、聖教会法第十三条『禁忌接触』および『英雄殺害』の容疑がかかっています」
「……逮捕状は?」
「ここに」
彼が懐から取り出した羊皮紙には、教皇の印章が押されていた。 これが出れば、国王であっても異議は唱えられない。
「教会地下の特別牢へご同行願いましょう。……尋問は、たっぷりとさせていただきますよ」
ルシアンが指を鳴らすと、影のように控えていた教会の執行官たちが私の両脇を固めた。 冷たい鎖が、私の手首に巻き付けられる。 黒い手袋の上から、食い込むように。
「ヴィオラ……」
殿下が、何かを言いたげに手を伸ばす。 けれど、セラがその腕を抱きしめ、引き留めた。 「いけません、ユリウス様。彼女は……罪人なのです」
そう。 私は罪人。 皆がそう望み、私がそう選んだのだから。
私は背筋を伸ばしたまま、ルシアンに向かって顎を引いた。
「参りましょう。ここの空気は……少し、眩しすぎます」
背後から、罵声が飛ぶ。 「人殺し」「恥知らず」「消え失せろ」 かつて私に媚びを売っていた令嬢たちが、今は鬼の首を取ったように私を罵る。 石を投げられるような視線の中、私は一度も振り返らずに歩き出した。
◇
重い鉄扉が閉まる音が、永遠の別れのように響いた。
教会の地下牢。 石造りの壁は湿気を帯び、カビと鉄錆の臭いが充満している。 先ほどまでの華やかな舞踏会とは、まるで別世界だ。 光も、音も、色彩もない。 あるのは、圧倒的な静寂と、冷気だけ。
執行官たちは私を牢に押し込むと、無言で立ち去った。 足音が遠ざかり、完全な独りになる。
私は、寝台代わりの粗末な藁の上に、崩れ落ちるように座り込んだ。
「……はぁ、……っ」
止めていた息を吐き出す。 張り詰めていた糸が切れ、全身の震えが止まらなくなる。 寒い。 怖い。 痛い。
強がっていた仮面が剥がれ落ち、ただの十八歳の小娘に戻る。
私は、震える手で、左手の黒い手袋を外した。 ゆっくりと、恐る恐る。
露わになった白い指先。 その爪の間と、手袋の内側には――微細な、青白い粉末が付着していた。
『星屑の残滓』。 レオンに飲ませた薬の、燃えカスのようなもの。 そして、彼が『禁忌』に侵されていたことの、唯一の物的証拠。
ルシアンは、これを知っている。 殿下たちが言うような『毒の証拠』としてではなく、もっと恐ろしい『何か』の痕跡として、これを狙っている。
私は手袋を握りしめた。 指が白くなるほど、強く、強く。
(ごめんね、レオン)
心の中で、亡き友の名を呼ぶ。
(私、うまくできたかな。あなたの名誉を、守れたかな)
涙は出なかった。 泣く資格なんて、私にはない。 だって私は、本当に彼を殺したのだから。 彼がどんなに望んだとしても、その心臓を止めたのは、私のこの手なのだから。
暗闇の中、私の左胸に刻まれた『誓約の印』が、微かに熱を帯びて疼いた。 それは、彼と交わした最期の契約。 誰にも言えない、二人だけの秘密。
『君は悪役じゃない』
ふと、レオンの声が聞こえた気がした。 あの懐かしい、太陽のような声が。
私は膝を抱え、冷たい石の壁に背を預けた。 長い、長い夜が始まる。 明日には、過酷な尋問が待っているだろう。 名誉も、地位も、未来も、すべて失った。
それでも。 私はまだ、折れるわけにはいかない。
手袋の奥底に隠された、もう一つの『遺書』。 まだ開封すらしていない、彼からの最後の手紙が、ドレスのポケットの中で熱を放っている気がした。
(守ってみせるわ)
私は闇を睨みつけた。
(あなたの願いも。……この国が隠している、狂った真実も)
悪役令嬢ヴィオラ・グランディスの戦いは、ここから始まるのだ。 誰のためでもない。 ただ、死んでいった最愛の共犯者のために。
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『婚約破棄された悪役令嬢は、幼馴染の最期の願いを叶えただけです ~「英雄殺し」の汚名を被り、全てを闇に葬って私は自由になります~』 放浪人 @Houroubito
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