ぬくもり

三角海域

ぬくもり

 父が死んだ。


 病室には消毒液の匂いと、機械の規則的な電子音だけがあった。ベッドの上で父の口が動いた。何かを言おうとして、言えないまま、右手だけが僅かに持ち上がる。僕はその手を見た。点滴の針が刺さった甲、浮き出た血管、骨ばった指。その手が空中で震えている。


 握ればいい。そう頭では分かっていた。


 けれど僕の両手は、白いシーツの上で硬く握りしめられたまま動かなかった。胸の奥で何かが引っかかる。子供の頃から積み重なった言葉にならない澱のようなものが、腕の筋肉を縛りつけていた。


 父の手が、ゆっくりと落ちた。


 心電図の波形が平坦になる音を、僕は他人事のように聞いていた。看護師が慌ただしく入ってくる。医師が何か告げる。母が泣く。その全てが透明な膜の向こう側で起きている出来事のように感じられた。


 葬儀が終わり、香典返しの手配が済み、四十九日の予定を母と確認する頃には、日常が戻ってきていた。


 港北ニュータウンの整備された街路樹。駅前のショッピングモール。オフィスビルのエントランス。僕はいつもの時間に家を出て、いつもの電車に乗り、いつものデスクに座った。


 同僚が「お疲れさま」と声をかけてくる。軽く会釈を返した。パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。未読が百二十三件。そのうち緊急性の高いものから順に処理していく。指がキーボードを叩く音が、思考のリズムを作った。


 昼休み、コンビニで買ったサンドイッチを食べながらニュースアプリを眺める。情報は次々と流れていくが、どれも表面を滑っていくだけで、僕の内側には何も残らない。


 定時で上がり、綱島の自宅マンションに帰る。シャワーを浴び、冷凍食品をレンジで温める。テレビをつけたまま食事を済ませ、ベッドに入る。


 そうやって一週間が過ぎた。


 鶴見川沿いをランニングする早朝、僕は自分が何も変わっていないことに気づいた。父が死んだというのに、悲しみも後悔も、確かな形では訪れない。ただ漠然とした違和感だけが、走っても走っても剥がれ落ちずについてくる。


 メールが届いたのは、父の死から三週間が経った夜だった。


 件名は「人格アーカイブ実験へのご協力のお願い」。差出人は見覚えのないIT企業の名前。迷惑メールかと思ったが、本文を読んで指が止まった。


『故・浅倉昭治様のご遺族の方へ』という書き出し。父の名前が、知らない誰かの文章の中に埋め込まれている。


 メールには、父が生前に同意していたという実験プロジェクトの概要が書かれていた。痕跡から人格を再現するAI。その精度を高めるための「チューニング実験」に、遺族の協力を求めている。


 僕はスマートフォンを机に置いた。


 画面が自動的に暗くなる。部屋の照明だけが、変わらず白い光を投げかけている。


 父の人格を再現する。


 その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。


 スマホが震えた。母からの着信だった。


「航? あのね、変なメールが来たんだけど」


 母の声は少し震えていた。同じメールが母にも届いたらしい。


「お父さんがこんなものに申し込んでたなんて知らなくて。どうしたらいいかしら」


「……今、僕も見たところ」


「断ってもいいのよね。でも、お父さんが何を考えてたのか、ちょっと……」


 母は言葉を濁した。僕は窓の外を見た。対岸のマンションの明かりが、川面に細く映っている。


「僕が行く」


 自分でも意外な言葉だった。


「本当に? 無理しなくていいのよ」


「大丈夫。ちょっと話だけ聞いてくる」


 電話を切ると、部屋が静かになった。エアコンの送風音だけが、規則正しく空気を循環させている。


 僕はもう一度メールを開いた。文末に記された研究所の住所を見る。新横浜。自宅から電車で二十分ほどの距離。


 何を期待しているのか、自分でも分からなかった。ただ、あの病室で握り返せなかった手の感触が、掌のどこかに引っかかっている。それを確かめるために。あるいは、消し去るために。


 僕は返信ボタンを押した。


 研究所は、新横浜駅から徒歩十分ほどの場所にあった。


 周囲にはオフィスビルが立ち並び、昼休みのサラリーマンたちが足早に行き交っている。僕もその中に紛れて歩いた。スーツ、革靴、ビジネスバッグ。誰もが同じような格好をして、同じような速度で移動している。


 目的のビルは十二階建てで、エントランスには複数の企業名が並んでいた。その中に「ネクサスメモリーズ株式会社」の文字を見つける。


 エレベーターで八階へ。廊下を進むと、白い扉があった。インターホンを押すと、電子音が鳴って解錠された。


「浅倉様ですね。お待ちしておりました」


 中から現れたのは、三十代半ばと思われる女性だった。スーツを着て、髪を後ろでまとめている。表情には一切の感情が見えない。


「研究主任の氷室と申します。こちらへどうぞ」


 案内された部屋は、想像していたよりも簡素だった。白い壁、グレーのカーペット、最低限の家具。窓からは隣のビルの壁面しか見えない。


「まず、プロジェクトの概要をご説明します」


 氷室はタブレットを操作しながら淡々と話し始めた。人格アーカイブ技術の仕組み。データの収集方法。AIによる学習プロセス。その全てが、まるで天気予報を読み上げるような口調で語られる。


「現在、浅倉昭治様のAIは基礎学習を終えた段階です。ただし、人格の再現精度を高めるためには、実際に親しかった方との対話データが不可欠です」


「対話、ですか」


「はい。ご遺族の方に実際にAIと会話していただき、その反応を元に微調整を行います」


 氷室の指がタブレットを数回タップした。壁に埋め込まれたモニターが明滅する。


 モニターに映ったのは、見慣れた顔だった。少し古い写真を元にしているのか、父はまだ五十代後半くらいの顔をしている。けれど表情の作り方、目の細め方、どれも記憶の中の父そのものだった。


『……航か』


 スピーカーから声が流れた。


『久しぶりだな』


 父の声が、スピーカーを通して部屋に響いた。


 僕は返事ができなかった。モニターの中の父は、生前と同じように眉間に皺を寄せている。腕組みをしたまま、こちらを見下ろすような角度で画面に映っていた。


「浅倉様?」


 氷室の声が遠くから聞こえた。僕は喉の奥に引っかかった何かを飲み込んで、ようやく口を開いた。


「……ああ」


『ああ、じゃねえよ。随分と顔色悪いな。もっと外で遊べ。だから不健康なんだよ』


「これは、データから構築された発話パターンです」


 氷室が補足した。


「実際の記憶があるわけではありません。昭治様が息子さんと会話する際の典型的な言い回しを再現しています」


『航。お前、ちゃんと飯食ってんのか?』


 僕は椅子の背もたれに体重を預けた。これは父じゃない。ただのプログラムだ。そう自分に言い聞かせる。けれど声の抑揚、間の取り方、全てが記憶と一致している。


「……食べてるよ」


『お前は昔から、忙しくなると食事が適当になる。母さんがいつも心配してた』


 母さんが心配してた。確かにそうだった。けれど父自身は、一度もそんなことを口にしなかった。仕事が忙しいと言えば「甘えるな」と返された。体調が悪いと言えば「気の持ちようだ」と一蹴された。


「あんたに何が分かる」


 気づいたら、そう言っていた。


『あ?』


「生きてるとき、一度だってそんなこと言わなかったくせに」


『航』


 父が僕の名前を呼んだ。


『お前、怒ってんのか』


 その言葉で、何かが弾けた。


「当然だろ」


 声が大きくなっていた。氷室が僅かに眉を動かす。けれど止められなかった。


「僕が何を考えてるか、何が辛いか、あんたは一度だって聞かなかった。いつも『お前はまだ甘い』『世の中そんなもんだ』『俺の若い頃は』……そればっかりだった」


『それは……』


「うるさい! あんたはもう死んだんだ。それなのに、いまさら……」


 部屋が静かになった。


 モニターの中の父は、何かを言いかけて、口を閉じた。その表情が、ほんの一瞬、本物の父と重なった気がした。


 次の瞬間、画面が乱れた。


 ノイズが走る。父の顔が歪む。スピーカーから、甲高い電子音が漏れた。


 氷室が立ち上がり、別のモニターに駆け寄った。そこには無数の数値が流れている。


「演算負荷が想定値を超えています」


「どういうことですか」


「分かりません。ただの会話で、ここまで負荷がかかるはずが……」


 警告音が鳴り響いた。赤いランプが点滅する。


 モニターの中の父は、まだ僕を見ていた。その目に、何が映っているのか。分からなかった。


「実験を中断します」


 氷室がそう告げたのは、システムが安定してから十分後だった。僕は別室で待たされ、紙コップの水を三杯も飲んだ。喉の渇きが取れない。


「先ほどの異常について、ご説明します」


 氷室は相変わらず冷静だった。タブレットに表示されたグラフを、僕の前に置く。


「特定の話題において演算負荷が急激に上昇する傾向があることが判明しました」


「特定の話題?」


「はい。具体的には……」


 氷室の指が、グラフの一点を示した。


「息子さん、つまりあなたとの関係性に関する対話です」


 僕は黙ってグラフを見た。会話の開始時点では安定していた数値が、感情をぶつけた瞬間から跳ね上がっている。


「なぜですか」


「現時点では仮説の段階ですが」


 氷室は少し間を置き、言った。


「昭治様の人格データには、息子さんへの感情に関する情報が極めて多く含まれています。しかしその大半が、矛盾を孕んでいる」


「矛盾?」


「愛情と、それを表現できなかった事実。期待と、それを伝えられなかった後悔。AIはこの矛盾を処理しようとして、論理回路が過負荷を起こします」


 氷室の声は、あくまで淡々としていた。


「人間で言えば、考えれば考えるほど分からなくなる、という状態に近い。ただしAIの場合、それが物理的な発熱として現れます」


 僕は紙コップを握りしめた。


「このまま深い対話を続ければ、システムは自壊します。サーバーの物理的な破損も想定されます」


「じゃあ、もう会えないってことですか」


「それは、浅倉様のご判断次第です」


 氷室は立ち上がった。


「ただし、このプロジェクトの目的は人格の再現精度向上です。システムの安全性を優先するなら、感情的な対話は避けるべきでしょう」


 感情的な対話を避ける。


 それは、父と僕がずっとやってきたことだった。踏み込まない。触れない。表面だけを撫でるような会話。そうやって、何年も同じ家に住んでいた。


「次回の実験は一週間後を予定しています。それまでに、参加の可否をお知らせください」


 氷室が名刺を差し出した。僕はそれを受け取り、ポケットに入れた。


 研究所を出ると、外は薄曇りだった。


 新横浜の雑踏の中を、当てもなく歩いた。駅前のロータリー、オフィスビルの谷間、高架下の道路。どこもかしこも無機質で、温度を持たない景色ばかりだ。


 ふと、弘明寺のことを思い出した。


 父の実家がある商店街。アーケードの下に並ぶ八百屋、魚屋、惣菜店。子供の頃、何度か連れて行かれた。父はそこで、知り合いに声をかけられるたびに立ち止まった。


『おう、昭治。息子か? でかくなったな』


『だろ? けどな、こいつ勉強以外は全然ダメで』


 父はいつもそう言った。僕の頭を軽く叩きながら、苦笑いを浮かべる。店主たちは笑った。父も笑った。僕だけが、笑えなかった。


 なぜあの場面を思い出したのか、自分でも分からない。ただ、あの商店街の空気には確かに温度があった。人の声、油の匂い、すれ違う肩。


 母からのメッセージがスマホに届いていた。


『どうだった? 無理しないでね』


 返信せずに、ポケットにしまった。


 空を見上げる。雲の切れ間から、僅かに光が漏れている。


 一週間後。


 また、あのモニターの前に座るのか。父の顔を見て、父の声を聞いて、当たり障りのない会話だけして。


 病室で、空を切った指先。何も掴めなかった、冷たい虚無。


 それを埋めるために、あの研究所に行った。けれど待っていたのは、近づけば近づくほど壊れていくAIだった。


 皮肉だと思った。


 生きているときも、死んでからも、僕と父は分かり合えない。


 横断歩道の信号が変わった。人波が動き出す。僕もその中に紛れて、歩き始めた。


 一週間後、僕はまた研究所を訪ねた。


 理由は自分でもはっきりしない。ただ、あのまま終わらせることができなかった。


「お待ちしておりました」


 氷室は前回と同じスーツを着て、同じ無表情で僕を迎えた。


「今回は、システムへの負荷を最小限に抑えるため、対話内容を制限させていただきます」


「制限?」


「日常的な会話のみです。過去の確執や、感情的なトピックには触れないでください」


 要するに、当たり障りのない話だけしろということだ。天気の話、仕事の話、健康の話。そんなもので何が分かるというのか。


 モニターの前に座る。画面が明滅し、父の顔が映し出された。


『よう』


 父は軽く手を上げた。前回の異常など忘れたかのように、穏やかな表情をしている。


「……うん」


『仕事は順調か?』


「まあ、普通」


『そうか』


 会話が途切れた。


 何か言おうとしても言葉が見つからない。


「あの」


 僕は氷室を振り返った。


「これ、意味あるんですか」


「データは蓄積されています」


 氷室の答えは素っ気なかった。


「続けてください」


 モニターに向き直った。父は黙って僕を見ている。その目に何が映っているのか、相変わらず分からない。


『なあ、航』


 不意に、父が口を開いた。


『お前、弘明寺、覚えてるか?』


「え?」


『昔、よく連れてっただろ。商店街』


 氷室が僅かに身を乗り出した。タブレットに目を落とす。けれど警告は出ていないようだった。


「……覚えてる」


『あそこの唐揚げ屋、まだあるのかな』


 父は遠い目をした。いや、それは錯覚だ。AIに遠い目なんてできない。けれど確かに、父の表情には何かがあった。


「知らない。最近、行ってないから」


『そうか』


 また沈黙が落ちる。


 けれど今度は、前とは違う種類の沈黙だった。何かが、ゆっくりと動き始めている。


『あそこでな、よくお前の話をしたんだ』


「俺の?」


『ああ。常連の店でな。酒飲みながら、自慢してた。俺に似ないで頭がいいってな』


 言葉を失った。


 父が僕の自慢をする? あの父が? いつも「お前はまだまだだ」と言っていた父が?


「嘘だ」


『嘘じゃねえよ』


 父は少し笑った。


『お前が大学受かったときも、就職決まったときも。嬉しくてな。誰彼構わず喋ってた』


「じゃあなんで」


 声が震えた。


「じゃあなんで、僕には何も言わなかったんだ」


 父の言葉が途切れた。


 モニターが揺れた。ノイズが走る。


「浅倉様」


 氷室の声が、鋭くなった。


「感情的な話題は避けるよう……」


「もう少し続けさせてもらえませんか」


 氷室は軽く頷いた。


「答えろよ、父さん。なんで僕には何も言わなかったんだ。なんで、いつも突き放すみたいなことばっかり言ってたんだ」


『それは、その』


 父の声が歪んだ。スピーカーから、ノイズ混じりの音が漏れる。


『言い方が、分からなくて』


「言い方?」


『お前に、どう接していいか。どう褒めていいか。分からなかった』


 警告音が鳴り始めた。


「分からないなら、そう言えばよかっただろ。分からないって、一言言えば」


『言えなかったんだよ!』


 父が叫んだ。


 モニター全体が激しく揺れた。画像が乱れ、音声が途切れ途切れになる。


『父親、だから。父親は、強く、なきゃ、いけない、って』


 氷室が立ち上がった。別のモニターには、真っ赤な警告文字が点滅している。


「中断します」


「待って!」


 叫んだ。


「まだ聞きたいことがある。父さん、最後に、病院で……」


『航』


 父の声が、ノイズの向こうから届いた。


『お前の、手を……』


「父さん?」


 父の顔が歪んだ。泣いているように見えた。


『お前、を、傷つけて、当然だよな』


 モニターが真っ暗になった。


 暗転した画面に、自分の顔が映っている。涙を流した、歪んだ顔が。


「もう無理です」


 サーバー室から戻った氷室は、きっぱりと告げた。


「このままでは、AIだけでなくハードウェアそのものが破損します」


 何も言えなかった。ソファに座ったまま、床を見つめている。


「AIは、息子さんとの対話において致命的な欠陥を抱えています。共感しようとすればするほど、理解しようとすればするほど、自己矛盾が増幅され、システムが崩壊する」


 氷室はため息をつく。無感情だった表情に、人間味を初めて浮かべた。


「プロジェクトとしては、これ以上の実験継続は不可能です」


「じゃあ、もう会えないんですか」


「データは保存されています。ただし、対話機能を再起動することは推奨しません」


 それは事実上の終わりだった。


 立ち上がった。帰ろう。もう、ここには何もない。


「あの」


 氷室が、珍しく言いよどんだ。


「一つだけ、規定外の提案があります」


「提案?」


「接触実験です」


 氷室はタブレットを操作した。画面に、ロボットアームの写真が表示される。


「対話ではなく、触覚を通じたコミュニケーション。AIが制御するアームを介して、フィジカルなコミュニケーションをとるんです」


 氷室は僕を真っ直ぐ見た。


「これが最後です。私の権限で、一度だけ許可します。どうなさいますか?」


 三日後、僕は再び研究所にいた。


 実験室には、見慣れない装置が設置されていた。銀色のロボットアーム。五本の指を持ち、関節部分には無数のセンサーが取り付けられている。


「AIと接続します」


 氷室がキーボードを叩く。アームがゆっくりと動き始めた。指が開いたり閉じたりする。まるで準備運動をしているかのように。


「システム、起動」


 モニターに父の顔が映った。穏やかな表情をしている。


『航』


「父さん」


『そのアーム、俺が動かしてるんだと』


「らしいね」


『不思議なもんだ』


 父は自分の手を見るような仕草をした。


「父さん」


 一歩前に出た。


「手、出してくれる?」


『……いいのか』


「うん」


 右手を差し出した。


 アームがゆっくりと動く。金属の指が、僕の指に触れた。冷たかった。けれど、確かに触れている。


 アームが少しずつ温かくなってきた。


『航、仕事きつくないか?』


「平気だよ」


『お前は昔から我慢ばっかりだからな。辛い時は母さんに相談しろよ』


 父の声が震えた。


 熱が、掌に伝わってくる。金属なのに、まるで人の手のようにあたたかい。


 氷室が何か言いかけて、黙った。そして、キーボードから手を離した。


『航』


 父が、僕の名前を呼んだ。


『ありがとな』


「何が」


『生まれて、きて、くれて』


 視界が滲んだ。


『お前の、父親で。良かった』


「僕も」


 声が震えた。


「僕も、父さんの息子で、良かった」


 警報が鳴り始めた。


『航、愛してるぞ。幸せになれよ』


 その言葉を最後に、アームの力が抜けた。


 モニターが暗転する。警報が止む。


 研究室に、静寂が戻ってきた。


 掌には、ただ、熱だけが残っている。


 確かに、そこにあった熱が。


 研究所を出たのは、日が傾き始めた頃だった。


 氷室は最後まで無表情を保っていたが、資料の入ったUSBメモリを手渡すとき、ほんの少しだけ目を伏せた。


「アームの熱は、負荷によって生じたものです。ですが……いえ、なんでもありません。お疲れ様でした。協力、感謝します」


 そう言って、彼女は踵を返した。


 ビルを出ると、西日が目に眩しかった。新横浜の街は相変わらず無機質で、行き交う人々は足早に通り過ぎていく。


 掌を見た。


 金属の手が、最後に伝えてくれた温度。それはぬくもりとして確かに残っている。


 気がつけば、電車に乗っていた。


 新横浜から横浜へ。横浜から京急に乗り換えて、弘明寺へ。


 久しぶりに降りた駅は、記憶よりも小さく感じた。改札を出て、商店街のアーケードをくぐる。


 平日の夕方。買い物客がぽつぽつと歩いている。八百屋の店先には大根が並び、魚屋からは磯の匂いが漂ってくる。惣菜店の前を通ると、揚げ物の音が聞こえた。


 スマホを取り出し、母にメッセージを送る。


『今度、父さんが好きだった店で夕飯食べようか』


 自宅に戻ったころには、もう夜八時を過ぎていた。


 いつもなら、すぐにシャワーを浴びて、冷凍食品を温めて、テレビをつける。そういうルーティンに入る。


 けれど今日は違った。


 窓を開けた。夜風が入ってくる。少し冷たいが、不快ではない。鶴見川の方から、かすかに水の匂いがする。


 冷蔵庫を開けて、卵を取り出した。簡単でいい。まともなものを、一つだけ作ろうと思った。


 フライパンを熱しながら、ふと笑みが浮かんだ。


 父なら、なんて言うだろう。


『お前、卵焼きなんて作れるようになったのか』


 きっと、そう言う。


「当たり前だろ」


 声に出して、そう返した。


 翌朝。


 久しぶりに、ぐっすり眠れた気がした。


 着替えて、部屋を出た。


 鶴見川沿いの遊歩道。以前と同じ道を走り始める。


 空は青く晴れ渡っていた。


 風が頬を撫でる。


 僕は走り続けた。


 一歩ずつ、前へ。

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