第一話:藤田 直の絶望
とんでもない才能が自分にひとつあったとして、それを継続できる家庭環境、経済力、そして何よりそれを「好き」であり続けられる精神が揃っている確率は、一体どれほどだろう。
その才能が、自分が生きていくための金を生み出す装置になり得るかどうかも重要だし、そもそも、その才能に出会えるかどうかが、最初の、そして最大のハードルなのだ。
健康で真面目な両親のもとに生まれた俺は、それだけで十分にラッキーだったと思う。
父は地元の企業に勤める平凡なサラリーマン。
「なぜか手当のせいで残業代が消えて、給料が下がったよ」
力なく笑う父に「あら、そうなの?
母は幼少期から始めたピアノが大好きで、ずっと趣味にしていた。
学生の頃、経済的事情で音楽大学進学を断念し、一般事務として就職した先で父と出会ったらしい。
「おうちで好きなことを仕事にできて幸せだわ」
そう笑う母は、確かに満たされているように見える。
母が始めたそのピアノ教室に、俺も「最初の門下生」として名を連ねた。
そして、そのすぐ後、二つ年上の『
「申し込みがあった道井桃さんって、町外れのあの豪邸の子よねぇ? 数ヶ月前までずっと海外で暮らしていた帰国子女なんですって」
母の言葉通り、
詳しくは知らないが、父親が研究者だかプログラマーだかの技術職で成功し、莫大な資産を築いているという。
プログラマーになるための高度な教育を受けられること自体、恵まれた経済力の証明のようなものだ。
よほどの運と努力がなければ、普通の家からそんな「勝ち組」は生まれない。
母がピアノ教室で使っているピアノは、もともと母の実家から持ってきたものだと聞いている。
母の祖父母から贈られたもので、教室を始めるまでは、ずっとリビングに置かれていたものだ。
教室を始める前から、俺はそのアップライトピアノで母の演奏を聴いたり、ピアノの基本を教わったりしていた。
四歳の冬。
「お母さん、今日『アヴェ・マリア』弾いて。……ナオクンね、途中から変わる色が大好きなの」
俺の言葉に、母は弾く手を止めて目を見開いた。
「色……?直君、今なんて言ったの?」
俺にとって、音色に色が伴うのは当然のことだった。
シューベルトの『アヴェ・マリア』。
最初は、早朝の霧のような透き通った淡いブルーが世界を覆う。
それが転調を迎え、響きが深まるにつれて、音の粒子が熱を帯び、夕焼けのような深いオレンジ色へと溶け合っていく。
それは単なる視覚情報ではない。
温度や、肌をなでる質感までもが「色」として脳に押し寄せてくるのだ。
「……すべての人が、音を色として感じられるわけではないのよ。これは特別な才能なの」
母は、俺が外で変な目で見られないよう釘を刺すつもりだったのだろう。
だが、その瞳には隠しきれない期待が宿っていた。
それから小学校低学年の頃まで、俺にとって楽譜は「塗り絵」にもなった。
音符の連なりを色にかえ、夢中で紙面を色鉛筆で塗りつぶしていく。
一般的に「心地よい」とされる名曲ほど、その色の混ざり方は凄絶なまでに美しい。
完全に混ざり合って新しい輝きを放つ瞬間もあれば、混ざり合う直前の、それぞれの色が互いの存在を主張しながら渦を巻く、マーブル模様のような緊張感に感動する。
小学校に入った頃の俺が心酔していたのは、パッヘルベルの『カノン』だった。
低音の重厚な茶色が土台を支え、その上にバイオリンの旋律が、鮮やかなエメラルドグリーンや金色の糸となって重なっていく。
同じ旋律が追いかけっこをするたび、色の層が厚くなり、最後には万華鏡を覗き込んだような眩い
俺はカノンの色彩をノートに再現し、時折、その色の続きが見たくて簡単な作曲もするようになっていた。
母にも俺と同じ能力があるらしい。
だが、彼女にとってピアノは「子供向けの教室を開ける便利なアイテム」であり、あくまで趣味の延長だった。
母は、本当に欲がない。
小学校高学年になる頃、俺の胸には
誰よりもピアノが弾けて、これからも上達するであろう俺は、きっと音楽大学に入ることはできる。
だが、問題はその先の現実だ。
副科レッスンの月謝、高額なコンクールの参加費、輸入楽譜の購入代。
さらに上のレベルを目指せば、一回数万円の特別レッスン代に、演奏会や試験の費用、そして海外留学の莫大な滞在費。
挙句の果てには大学院進学。
「うちの家計では、逆立ちしても無理じゃないか」
とんでもないパトロンでも付かなければ、俺は結局、この町のピアノの先生で終わる。
そんなことを冷静に分析してしまう、嫌な小学六年生だった。
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音紋 — Sound Print — 晴久 @nanao705
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