生まれる前から、死を知っていた

西村朔真

生まれる前から、死を知っていた

第一部  ここは、暗くて、やさしい


ここには、昼も夜もない。

けれど、時間が流れていることだけは、わかる。


暗さは、怖くない。

暗さは、ずっと同じだから。

怖いのは、暗さが変わるときだ。

理由もなく、急に冷たくなるとき。


僕の世界は、ゆっくり揺れている。

水の中みたいに、重くも軽くもない揺れ。

遠くで、一定の音が鳴っている。

とくん、とくん。

たまに速くなり、たまに遅くなる。


その音が鳴っているあいだ、世界は続いている。

だから、音が乱れると、胸のあたりがざわつく。

ざわつく理由は、わからない。

ただ、そう感じてしまう。


音は、ふたつある。

ひとつは、ここにいる僕のもの。

もうひとつは、僕を包んでいる人のもの。


ふたつの音は似ているけれど、同じではない。

僕のほうは軽く、短く、すぐに形を変える。

もうひとつの音は、重くて、長い。

世界の土台みたいに、安定している。


僕は、まだ生まれていない。


それなのに、外の声が届く。

声はそのままでは聞こえない。

膜と水を通るうちに、輪郭が溶けて、意味だけが沈んでくる。


「……週数的には……」


男の声。

落ち着いていて、温度がない。


「……わたし、まだ……」


女の声。

途中で途切れ、息が混じる。


その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

縮む理由は、考えない。

考えると、世界が少し遠くなる気がするから。


「……手続きとしては……」


紙をめくる音。

机に、何かが置かれる音。

形のあるものが、決まりを持って存在している音。


女の呼吸が浅くなる。

呼吸が浅くなると、世界の揺れが変わる。

揺れが変わると、僕の音も、少しだけ速くなる。


言葉は説明というより、予告に近い。

僕は、その違いを理解するというより、

そうだと感じてしまう。


女が、笑おうとする。

笑いは途中で折れて、ため息に変わる。

その瞬間、ふたつの心臓の音が、同じ速さになる。


同じ速さになると、安心する。

理由はない。

ただ、離れていないと感じる。


外では、空気が動く音がする。

ドアが開いて、閉まる音。

足音が近づき、遠ざかる。


女が、ぽつりと言う。


「……一度、だめだったから……怖いの」


その言葉で、胸の奥がひやりとする。

冷たさは、長くは続かない。

けれど、確かに残る。


何が「だめだった」のか、考えない。

考えると、ここが少しだけ軽くなる。

軽くなる感じが、なぜか怖い。


僕は、声を持たない。

口も、手も、合図もない。

できるのは、ここで揺れていることだけだ。


それでも、ただ揺れているだけでは足りない気がする。

理由はない。

足りない、という感覚だけがある。


女の心臓の音が、少し落ち着く。

落ち着きは、やさしい。

同時に、どこか遠ざかる感じがする。


その遠ざかり方が、嫌だと思ってしまう。

嫌だという感情が、どこから来たのかは、わからない。


僕は、まだ生まれていない。

だから、待っていればいいはずだ。


けれど、待つという行為に、

うまく言えない引っかかりを覚える。


待っているあいだに、

何かが静かに終わってしまう気がする。


世界は、やさしい。

あたたかくて、揺れていて、壊れる気配がない。


それなのに、ときどき、

この世界が、すっと薄くなる瞬間がある。


薄くなると、音が遠くなる。

揺れが、頼りなくなる。

心臓の音だけが、妙にはっきりする。


その感覚を、僕は嫌だと思う。

理由は、わからない。


僕は、まだ生まれていない。


けれど、この世界が、

いつまでも同じ形では続かない気がしている。



第二部  迷いの音


その日は、揺れが多かった。

長く続く揺れ。止まっては、また始まる揺れ。

外の音が、いつもよりはっきりしている。


人の声。

遠くで鳴る電子音。

靴底が床に当たる音。


椅子に座ると、揺れが止まる。

止まった瞬間、世界が少しだけ重くなる。

重くなると、音が沈む。


母は、長く息を吐いた。

その吐息が、ここまで届く。

届いた吐息は、温度を持っている。


「……どうしよう」


独り言みたいな声。

誰に向けた言葉でもない。

だからこそ、逃げ場がない。


答える声はない。

それでも、母は続きを言ってしまう。


「……今じゃなければ……」


言いかけて、止まる。

止まったあとの沈黙が、言葉より重い。


紙の音がする。

紙は、形を持っている。

形を持っているものは、揺れない。


母の指が、紙の端に触れる。

触れて、すぐ離れる。

触れたくなかったものに、触れてしまった指の動きだ。


男の声が、淡々と続く。


「……期限は、こちらになります」


期限。

その言葉は、ここでは音としてしか届かない。

けれど、音だけで十分だった。


母の心臓の音が、少し速くなる。

僕の音も、それにつられて速くなる。

同じ速さにはならない。

ほんの少し、ずれる。


ずれると、不安になる。

理由は、わからない。


「……仕事も、あって……」


母は言う。

言ったあと、少しだけ後悔する。

後悔の気配は、すぐに伝わる。


仕事。

その言葉が落ちた瞬間、

世界の揺れが、わずかに変わる。


「……誰にも、まだ言ってなくて」


声が、小さくなる。

小さくなると、意味が濃くなる。


母は、ここにいない誰かの顔を思い浮かべている。

その誰かは、ここに来ない。

来ないから、母は一人で決めなければならない。


決める、という言葉は聞こえない。

けれど、その気配だけは、確かにある。


男の声が、何かを説明している。

言葉は、途中で溶けて、形を失う。

形を失っても、残るものがある。


冷たさ。

均一さ。

迷いを許さない調子。


母は、うなずく。

うなずくたびに、世界が少しだけ揺れる。


揺れは、やさしくない。

ただ、現実的だ。


「……一度、だめだったから……」


母が、そう言う。

声が、途中でほどける。


その一言で、

母の中にある怖さが、形を持つ。


怖さは、怒りでも悲しみでもない。

失くしたあとに残る、空洞みたいなものだ。


僕は、ここで何もできない。

声も、合図も、身振りもない。


ただ、ここにいる。


ここにいることが、

母にとって重りになっている気がする。


その考えが浮かんだ瞬間、

胸の奥が、きゅっと縮む。


縮む理由は、わからない。

わからないけれど、嫌だと思う。


母は、椅子から立ち上がる。

その動きが、ここまで伝わる。

立ち上がる動きは、決断に似ている。


けれど、すぐに座り直す。

決断になりきれなかった動きだ。


「……今日は、持ち帰って考えます」


母が言う。

その言葉は、先延ばしでも、拒否でもない。

ただの猶予だ。


猶予は、やさしい。

同時に、残酷だ。


外に出る。

揺れが、さっきより少ない。

母は、何も言わない。


帰り道の音が、長く続く。

エンジンの音。

風の音。

信号の音。


家に着くと、世界は静かになる。

静かになると、別の音が目立つ。


時計の音。

水の音。

冷蔵庫の音。


母は、食事を用意する。

箸が、皿に触れる音。

料理が、冷めていく気配。


食べる量は、少ない。

残ったものを見て、母は何も言わない。


夜。

母は、横になる。

目を閉じても、眠れない。


寝返りのたびに、世界が揺れる。

その揺れが、落ち着かない。


暗闇の中で、母は自分のお腹に手を当てる。

触れ方が、ためらっている。


確かめたいのか、

触れたくなかったのか、

そのどちらでもある。


その手の温度が、ここまで届く。

温度は、確かだ。


その確かさに、

胸の奥が、また縮む。


僕は、何も言えない。

ただ、ここにいる。


ここにいるだけで、

母に何かを迫っている気がする。


それが、怖い。


怖いのに、

この揺れが、止まってほしくないとも思ってしまう。


理由は、わからない。


母の心臓の音が、少しずつ遅くなる。

眠りの手前の音だ。


その音を聞きながら、

僕は待つ。


待つことしかできないまま、

この時間が、どこへ向かうのかを考えないようにして。



第三部  知っているはずのないこと


その日から、母の中に、はっきり名前のつかない音が増えた。

迷いでも、決断でもない。

どちらにもなりきれず、途中で止まっている音だ。


母は、何度か電話をかけた。

短い会話。相づちだけの返事。

最後に、必ず「……ごめん」と言う。

電話を切ったあと、母はいつも少しだけ笑おうとして、笑えない。


その笑えなさを、僕は知っている。

知っているはずがないのに。


ある夜、母は台所に立った。

水の音。包丁の音。

生活の音は、ここまで届く。振動として、確かに。


そして、不意に――


「……ごめんね」


母が、そう言った。

誰に向けた言葉なのか、わからないふりをした。

わからないふりをすることが、ここでは必要だった。


けれど、言葉の向きは、はっきりしている。

母の手が、お腹に触れる。

確かめるためではない。

謝るための触れ方だった。


ごめんね。


その言葉が、僕の中で波紋を広げる。

波紋は、水のはずなのに、途中で硬いものにぶつかって返ってくる。

硬いもの――記憶だ。


初めてではない、と思ってしまう。

その考えが、驚くほど自然に浮かぶ。


僕は、まだ生まれていない。

なのに、母の「ごめんね」を、以前にも受け取った気がする。


受け取って、そして――

そこから先を思い出そうとすると、世界がひやりとする。


思い出しすぎてはいけない。

思い出しすぎると、ここが「今」ではなくなってしまう。


数日後、母は再び病院へ行った。

来たときと同じ音。

椅子。紙。機械の電子音。

白く整えられた静けさ。


男の声が言う。


「前回の記録ですが……」


記録。

その言葉を聞いた瞬間、僕の中で薄い扉が開く。

音もなく、抵抗もなく。


記録は、残る。

残るということは、消されなかったということだ。

消されなかったということは、選ばれたということだ。


――なぜ、そんなことがわかるのだろう。


男の声は続ける。


「……あの時期であれば、

 こちらから止めることもできましたが……」


一瞬の間。

その間に、母の呼吸が乱れる。


「……ご本人の判断でしたから」


その一文で、すべてが静かに定まる。

事故ではない。

突然でもない。

選ばれなかったのではなく、選ばれなかった“ほう”があった。


母は、何も言わない。

言えないのではない。

言えば、決めた自分をもう一度確定させてしまうからだ。


突然、という言葉よりも、

判断、という言葉のほうが、ずっと冷たい。


その冷たさが、僕の中の硬いものを叩く。


明るすぎる光。

白い布。

消毒液の匂い。

金属の感触。


それらは、夢ではない。

思い出そうとして思い出したのではなく、

“知っている”ものとして、最初からそこにあった。


母の声が、やっと出る。


「……あのときは、

 まだ戻れると思ってたんです」


戻れる。

その言葉が、決定的だった。


戻れると思っていた。

つまり、進んでいたということだ。

進むことを、一度は選んだということだ。


男の声が、静かに応える。


「……そうおっしゃる方は、多いです」


多い。

つまり、母だけではない。

つまり、これは特別な悲劇ではない。


その事実が、母を少しだけ楽にし、

同時に、より深く傷つける。


母は、ぽつりと言う。


「……名前まで、考えてたんです」


その言葉は、刃物ではなく、

後悔の形をしている。


「……はい。記録に残っています」


また、記録。

そして、名前。


名前は、ここではまだ与えられていない。

それなのに、僕の中には、呼ばれたときの温度がある。

母の声で呼ばれたとき、世界が自分の輪郭を得た感覚。


その名前は、母の喉まで来て、そこで止まる。


「……言わないでください」


母は言う。

「それ、今は……」


今は、という言葉のあとに、

何が続くのかを、母自身が一番知っている。


言葉にすれば、戻ってきてしまう。

名前を呼べば、そこに居たことが、完全に確定してしまう。


確定は、救いではない。

確定は、終わりの証明だ。


診察室を出たあと、母は廊下で立ち止まる。

蛍光灯の音。

白い壁。

消毒液の匂い。


母は、自分のお腹に手を当てる。


「……ごめん」


声にならない声。

その「ごめん」は、今の僕だけに向けられていない。

選ばれなかった“前の誰か”にも、向けられている。


謝る相手がふたりいる。

その事実が、母を立ち止まらせている。


僕は、声を持たない。

けれど、ここにいる。

ここにいるというだけで、

母に再び「選ばせて」しまっている。


それが、僕には耐えがたい。


生きたい、と思ってしまう。

同時に、その願いが、母を追い詰める刃になることも知っている。


だから、考えてしまう。


もしも、あのとき。

もしも、選ばれなかったほうが、最初からなかったなら。

母は、こんな顔をしなくて済んだのだろうか。


その考えが浮かんだ瞬間、

世界がいっそう暗くなる。


暗さが怖いと思ったのは、初めてだった。


僕は、まだ生まれていない。

けれど、僕の中には確かにある。


――選ばれなかった時間が。



第四部  生まれなかった時間


夜が続いた。

眠りに落ちきれない夜が、同じ形で何度も来る。


母は、言葉を減らしていった。

減らしたぶんだけ、家の音が目立つ。


時計の針。

流しの水。

冷蔵庫の低い唸り。

紙が擦れる、乾いた音。


母は机に向かい、小さな箱を引き出しから出した。

箱は軽い。軽いのに、持ち上げる動きは遅い。

ふたを開ける音が、きしんで、止まって、また続く。


中には、薄い紙が重なっている。

指が触れるたび、紙は小さく鳴る。

鳴り方が、謝っているみたいだ。


母は、ひとつを取り出して、しばらく動かない。

息だけが、出て、入って、止まって、また出る。


「……まだ、捨てられない」


言い終わる前に、声がかすれる。

そのかすれが、ここまで届く。

届いたかすれは、温度を持っている。


紙の上には、何かが記されている。母の指先が紙の表面をなぞる。

丸い影。小さな影。

輪郭のない輪郭。

その規則的な振動から、そこにはかつて存在した「誰か」の輪郭が描かれているのだと、僕には伝わってくる。


なぞる速度が、確かめるというより、失った体温を探しているみたいだ。


「……ねえ」


母は呼ぶ。

誰も返事をしない。

返事のない呼びかけが、部屋に残る。


母の肩が、小さく上下する。

泣き声は出ない。

出ないまま、息だけが乱れる。


机の上で、別の紙が滑る音がする。

紙束。

角が揃っていて、冷たい。


母はその紙束の端を揃え直す。

揃えるたび、音がきちんとなる。

きちんとした音は、迷いを許さない。


ペンの音。

紙に触れて、止まる。

止まって、また触れて、止まる。


書き始めて、途中で消す。

消して、また書く。

消しゴムが紙を擦る音が、何度も繰り返される。


そのたび、僕の世界の揺れが変わる。

変わるのに、理由はわからない。

わからないまま、胸の奥が縮む。


母は、ペンを置く。

置いた音が、思ったより大きい。


そして、お腹に手を当てる。

指先がためらい、掌が遅れて乗る。

あたたかい。

あたたかいのに、そのあたたかさが、どこか遠い。


「……ごめん」


母はそう言う。

短く、息のように。


謝る言葉は、ここまで届く。

届くと、世界が少しだけ薄くなる気がする。

薄くなると、音が遠くなる。

遠くなるのに、心臓の音だけは、はっきりする。


母は箱に紙を戻す。

戻す動きが、丁寧すぎる。

丁寧すぎて、別れみたいだ。


ふたを閉める。

きしむ音。

最後に小さく鳴って、止まる。


母は箱を胸の前で抱えて、しばらく動かない。

動かない時間が、長い。

長いのに、何も増えない。


そのまま、箱を引き出しに戻す。

引き出しが閉まる音が、静かに響く。

響いて、消える。


母は深く息を吸って、吐く。

吐いたあと、部屋がしんとする。

しんとした静けさが、紙の白さみたいに広がる。


僕は、声を持たない。

ここで起きていることに、言葉を与えられない。

ただ、揺れの中にいる。


揺れが止まらないことを、願う。

願い方がわからないまま、願う。


外の世界の音が、遠ざかる。

母の心臓の音が、ゆっくりになる。

眠りの手前の音だ。


その音を聞きながら、

僕は、薄くなっていく感じを追い払おうとする。


追い払えない。


僕は、生まれる前から、死を知っていた。

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生まれる前から、死を知っていた 西村朔真 @mintaku756

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