サンシャイン・トライブ

揚羽(ageha)

サンシャイン・トライブ

 電車の中で、たまたま気が抜けすぎている男を、探偵は見ていた。

 スーツの男――袴田が、ナマケモノのように両手でつり革にぶら下がって立っている。両腕を高く上げ、指先だけで輪を掴み、身体を預けることもせず、ただ揺られている。その無防備さが、車内では妙に目立っていた。

 袴田の周囲に、いつの間にか若い男女が数人、自然に集まってくる。服装はばらばらだが、距離の詰め方が同じだ。探偵は一瞬で理解した。スリ、もしくはその手の連中だ。

 池袋に着く、ほんの手前。

「痴漢です!」

 女の声が、車内を切り裂いた。空気が一気に傾く。誰も決定的な場面を見ていない。それでも人は、叫んだ側に集まる。理屈ではない。反射だ。探偵は、過去に何度も冤罪の後始末を見てきた。冤罪で逮捕されるよりも、ああいう連中は示談金を狙っている可能性のほうが高い。

 探偵は腹の底から声を出した。

「おい! そいつ、ナマケモノみたいに両手でつり革にぶら下がってただろ!」

 車内が一瞬、止まる。その隙に探偵は袴田を突き飛ばし、名刺を押し込んだ。

「いいから逃げろ。すぐ電話しろ」

 探偵は数人を押さえ込んだが、体勢を崩される。半グレ風の男が舌打ちした。

「おいコラ、待てや」

 探偵はそいつの腕を掴み、目を合わせる。

「今ここで揉めるか? 面倒だぞ」

 男は一瞬ためらった。その隙に、袴田の姿が人波に消えたのを、探偵は確かに見届けた。

――電話が鳴る。

「聞こえるか。いいか、慌てるな。お前は今、映画の主人公だ。Bluetoothイヤフォンを持っているか?」

「はい」

「すぐに繋げるか」

「……何が起きているのか、正直よく分かっていません」

「分からなくていい。そのままだと冤罪で逮捕されるだけだ。言う通り動てみせろ」

 探偵は即座に判断する。ジプシー連中は散る。必ずバラで追ってくる。

「大塚側のウイロードだ。西口から東に抜ける」

「はい……ありがとうございます」

「歩きながらネクタイ外せ。ポケットにしまえ」

「分かりました」

 人の流れに紛れ、袴田が指示をこなしている様子が、声の間から伝わってくる。探偵は周囲の気配を想像しながら、言葉を切らさない。

「東口に出る前にコート脱げ。バッグを包め。歩きながらだ。後ろを振り返るなよ」

「了解です」

「両袖を結んで、手提げ風にしろ」

「はい」

「サンシャイン通りだ」

「……」

「電波が厳しいかぁ」

「……」

「おい、大丈夫か」

 返事が途切れた数秒で、探偵は最悪の想定をいくつも捨て、ひとつだけを残した。まだ追われている。

「……はい、なんとか大丈夫です」

「いいか、人の波に乗れ。電気屋の前も同じく」

「は……」

「左側を歩け。静かになったな。そこの信号待ちで、靴紐を直すふりをしろ」

「……はい」

 革靴に紐はない。それでも腰を落としたことは、声の間で分かった。

「後ろ向くな。右だけ見ろ」

「分かりました」

「走ってるやつはいるか」

「……いません」

「青になったら歩け。走るなよ。落ち着いてな」

「はい」

「お前、休日にゲーセンとか行くだろう。ゲーセンに入れ」

「え……? 袋のネズミですよ」

「あぁ、そうかもな」

「そうかもな、って……見捨てるわけじゃないですよね」

「小物のUFOキャッチャーだ。だて眼鏡を取れ」

「……休日に、よく行きますが……取れますかね」

「ゲーセンに入ったら、上着を脱げよ」

「……はい」

「手前だと追っ手が怖いので、少し先のゲーセンでもいいですか?」

「おまえが決めろ」

「入ります。メガネありました」

「その音は、取れたな。そういうところはおまえらしいな」

「聞こえました? はい、ありがとうございます」

 袴田はメガネをかける。

「景品用の大きい袋をもらえ」

「有料ですよ」

「有料になったのか。ってそんな場合じゃないだろう」

「すみません。袋が欲しいのですが」

「あちらに販売機がございます」

「……ありがとう」

 硬貨を落とす音が、やけに大きく響いた。

「鞄から上着から、全部入れました」

「上出来だ。出て左だ。サンシャイン方面。人の波に乗れ」

 首都高の下。人の波。信号待ち。

「もう少しだ。頑張れ」

 その時、袴田は肩を叩かれた。

「さっき、電車乗ってたよな?」

 危機を感じた探偵は即座に割り込む。

「息を吸え。早く吸え。胸張れ。目を開いてないくらいに細めろ」

 袴田は振り返り、

「本日は駅を利用しておりませんが。何かご用件でしょうか」

「ちげぇ……悪ぃ」

 足音が離れる。

 探偵は、間を置かず次の指示を出した。別人でい続けさせるためだ。

「動悸が出ても、言葉にするな。歩け」

「っ……」

「はぁはぁ、はぁーぁー。……サンシャインのビルには入れました」

「奥のワールドインポートマートまで歩けるか。まだヤツらの島だ」

「はい、もちろん」

「そこで、買い物をしたことはあるか」

「はい。アニメイトに寄ったときに、ここで服を買います」

「了解だ。質問する。スーツ用のコートは、そのベージュ以外に持ってるか。それとリュックは」

「ジャンパーは何着かありますが、コートはこれだけです。リュックは持っていません」

「パーカーと黒のコート、大容量のリュックをさりげなく買え。行き止まりの、有楽町線につながるトイレまで行け」

 走らず、慎重に動いていることが、探偵には分かった。

 バタン。袴田がトイレに入る。

 コンコン、コンコン。乾いた音が、薄い扉を叩いた。中からは返事がない。水の流れる音も、衣擦れも聞こえない。探偵は、スマホを握ったまま動かなかった。数秒、沈黙だけが妙に長く伸びる。

 袴田は、個室の中で息を殺していた。ワイシャツの内側に汗がにじみ、背中を伝う。指先は冷たく、勝手に震える。止めようとしても止まらない。呼吸を浅くしすぎて、胸が苦しい。音を立ててはいけない。その意識だけが、頭の中で反復していた。

 探偵は歯を一度だけ噛みしめた。声は聞こえなくても、震えていることだけは分かる。

 コンコン。

「お客さま、お伝えしたいことが……」

「はい」

「先ほどお買い上げいただいた店のものです。お客さまにポイントカードをお渡しするのを忘れてしまって」

「今、開けます」

「いや、あの、ここではあれなので。帰りに店舗にお寄りください」

「はい」

 袴田は個室の床にへたり込んだまま、探偵の指示で買ったペットボトルを一気に飲み干した。呼吸を整えパーカーを着込み、再びメガネをかけた。

 そのごくり、という音で、状況が一段落したことを、探偵は理解した。こんな状況でも袴田はポイントを貯めたのだと、こいつは大物かもしれないと思った。

 遠回りして帰れ。乗り換えろ。次の電車賃のことも伝えた。

 長い一日だった。

 探偵は、そのあと浦和まで帰った。感謝の言葉を十分に受け取れなかったことを、探偵は気にしていない。そういう男だと、最初から分かっていた。

 翌日、袴田がコートの前ボタンを留め、リュックを前に抱え、姿勢を正して歩いている姿を、探偵は想像した。伝わっていればいいが。

 助けられる側は、いつか必ず、助ける側に回る。

 探偵は、そういう連鎖だけを信じている。

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サンシャイン・トライブ 揚羽(ageha) @ageha-detective

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