悪役令息ですが皇太子が離してくれません

ゆきどけうさねこ

Prologue「青だと思った信号の向こう側」

今日も、世界は静かに彼をすり減らしていた。


会社のビルを出たのは、日付が変わる直前。

夜の空気は冷たく、肺に入るたびにやけに重く感じる。

足取りは覚束なく、アスファルトの感触すらどこか遠い。


「……疲れた……」


誰に向けるでもない言葉が、喉の奥から零れ落ちる。

残業続き、終わらない仕事、眠れない夜。

頑張っているつもりでも、評価は変わらず、報われる実感は薄れていくばかりだった。


スマートフォンを取り出す。

画面には、さっきまで読んでいた小説の続きが表示されたままだ。


『薔薇の宝石』


王宮を舞台にしたBL小説。

平民出身の青年に、完璧な皇太子が執着し、恋に落ちていく物語。

その裏で、悪役令息は全てを失い、断罪され、静かに退場していく。


「……ほんと、報われない役だよな……」


彼が好きだったのは、皇太子でも主人公でもなかった。

断罪される側の令息だった。

不器用で、誇り高くて、誰にも理解されずに消えていく存在。


小説の中では、彼の苦しさはほとんど救われない。

悪役だから。

物語を盛り上げるための装置だから。


でも、だからこそ、心が引っかかっていた。


「悪役ってさ……生きちゃいけない理由にはならないだろ……」


呟きは風にさらわれる。

答えは返ってこない。


横断歩道の前で立ち止まる。

信号が滲んで見えた。

赤と青の境界が曖昧で、どちらがどちらなのか一瞬わからなくなる。


まばたきをして、目をこする。

頭がぼんやりしている。

きっと、疲れすぎているのだ。


「……青、だよな……」


そう思った。

思ってしまった。


足を踏み出した瞬間、耳を裂くようなクラクションが鳴り響いた。


眩しいライト。

迫りくる影。

身体が宙に浮く感覚。


「――あ……」


声にならない声が喉で詰まる。

衝撃は一瞬で、次の瞬間には世界が裏返った。


音が消え、色が消え、重さだけが残った。


――ああ、これ、死ぬんだ。


なぜか、不思議なほど静かだった。

恐怖よりも先に、深い諦めがあった。


「……もう、頑張らなくていいのかな……」


そう思った瞬間、涙が滲んだ。

悔しさでも悲しさでもなく、ただ、やっと休めるかもしれないという安堵。


意識が薄れていく中で、胸元に硬い感触を覚える。

ポケットの中に何かがある。


指先が探り当てたのは、小さなノートだった。


A5サイズ。

深い薔薇色の表紙。

しっとりとした革張りの感触。


「……こんなの、持ってたっけ……」


記憶にはない。

でも、なぜか強烈な既視感があった。

ずっと前から、これを持っているべきだった気がした。


ノートを握ると、心が少しだけ落ち着く。

まるで、命綱のように。


――もし、生まれ変われるなら。


頭の中に、ひとつの願いが浮かんだ。


せめて、

あの悪役令息が、

報われる世界がいい。


悪役だからと切り捨てられず、孤独だからと嘲笑われず、

誰かに「生きていい」と言ってもらえる場所。


それが叶うなら、もう一度、生きてもいいと思えた。


視界の奥が白く滲む。

遠くで、誰かの声が聞こえた気がした。


「――ようこそ、『薔薇の宝石』の世界へ」


それが神の声なのか、ただの脳内の幻聴なのかは分からない。


だが、次の瞬間。


世界は闇に溶け、意識は完全に途切れた。


そして彼は知らない。


この小さなノートが、やがて運命を書き換える“写本”になることを。


断罪予定の悪役が、溺愛ルートに強制ログインする物語は、この夜、静かに始まっていた。

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2026年1月23日 12:00
2026年1月24日 12:00
2026年1月30日 12:00

悪役令息ですが皇太子が離してくれません ゆきどけうさねこ @Snow1509

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